さて、話は肥前に戻ります。
しつこいようですが、菊池武澄公は武光公の兄です。九州平定は武澄公抜きに語ることはできません。島原平定、大友氏泰降伏、宇都宮守綱降伏、一色範氏追放は武澄公の功績と言っても過言ではなく、足利尊氏はびびって自ら九州へ赴こうとしたとか。
武澄公は肥前守を叙任されたものの、依然として肥後玉名や高瀬あたりを本拠としていました。
正平9(1354)年、高瀬から多比良・湯江に上陸した武澄公は、まず海陸共に重要拠点である
多比良城を攻略します。
もともと多比良城には南朝方の多比良氏がいたようですが、正平7年一色範氏によって落とされたのを奪い返す意味合いもあったようです。
現地説明版の写真を見ると、広大な平野部に有明海に伸びる台地の先端に築かれたのがわかります。
現在畑になっている部分はやや低くなっており、かつては空堀だったのかもしれません。城郭大系では遺構として石垣が挙げられていましたが、よくわかりません。
さてサッカーで有名な国見高校の前に、このような標柱が立っています。これを見て、城域はこの辺りで、標柱のみで遺構なしと勘違いしてしまう方が多いようです。この標柱は撤去した方が良いと思います。もしくは主郭の方向に矢印をつけるとか。
かくいう私も、地元出身の友人に教えてもらわなければ同じ勘違いをしていたでしょう。多比良城に行くことがありましたら、その友人のお店、
ふげん庵をどうぞよろしく。
次も肥前(たぶん島原)のお寺かお城を。
文献 荒木栄司『九州太平記』 天本孝志『九州南北朝戦乱』 菊池市『菊池市史』 『日本城郭大系17』
【肥前多比良城】
雲仙市国見町多比良丙 Pなし。国見高校近くの空き地に駐めるのが無難か
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