文亀4(1504)年2月15日は第22代菊池能運公のご命日です(2月13日もとある方の命日でしたが、うっかりしていました)。
写真は
菊池神社蔵の能運公像です。菊池一族で現存する数少ない肖像画の一つで、百年忌の1603年に描かれたと伝わります。ネットから拾ったもので、撮影禁止の宝物館で撮影したわけではありません。
能運公は武光公からの嫡流最後の当主で、父・重朝の跡を継いだのは1493年、12才(14才とも)の時でした。
ただでさえ若いのに、その上、父・重朝の数々の失態の尻ぬぐいをせねばならなかったわけですから、それは大変な苦労をされた人物です。
まだ10代で相良為続から
豊福城を奪い返し、天草を支配下に置いたまでは良かったのですが、重臣の「隈部退治」を目論んだ
玉祥寺原の戦いでは一族をうまくまとめることができず大敗を喫し、島原に逃れました。この時、「武運」が「不運」に繋がり縁起が悪いと、「能運」に改名しています。
不在となった家督の席には、
家中「老弱一味同心」(『五条文書』)で大叔父の宇土為光が推戴されたのですが、宇土為光は野心からずっと家督を狙っていたのだと誤解されがちなかわいそうな人物です。
さて能運公は相良長毎(為続と違い能運を支持)や菊池に残る家臣の支援を受け高瀬に上陸、為光との合戦に勝利し、為光は後に自害、能運公は隈府に復帰します。
改名の効果覿面、さてこれから…と言うところでしたが、高瀬での傷が元で、1504年の今日死去したのです。家督相続からわずか11年、12才家督相続説を採るなら、23才でした。墓は正観寺の実相院にあり、夫婦の墓と言われます。
さて能運公、どうやら奥さん(隈部武治の女)はいたようですが子供はなく、再従兄弟の菊池政隆(肥前政朝)に守護職を譲ると言い残したのですが、菊池氏の正統が途絶えたこともあり、菊池家は衰亡の一途をたどることになるのです。
なお、能運公は島原に逃れる際、弟の重房に子・重為を託して米良に逃し、米良菊池の起源となったとも言われます(諸説ありすぎ)。かの菊池武夫はその子孫を称しています。
たぶん次は能運公も頼った島原の肥前家との関係について。
文献 堤克彦『郷土史譚100話 菊池』 阿蘇品保夫『菊池一族』
【正観寺実相院 菊池能運公墓】
菊池市隈府(菊池グランドホテル南側) 墓前に駐車スペースあり
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