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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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みやま市の菊池一族関連史跡をふらふらと

 久々の更新です。
 桜の菊池以来、ほぼ菊池一族と無縁の生活でしたが(熊本市内にはたびたびでかけています)、今日は仕事の合間にみやま市の菊池一族関連史跡を駆け足で訪問してきました。旅行記と言うほどのものではありません。
 なお、スマホでの撮影のため、写真の画質は今ひとつです。

 最初に向かったのは「赤星地蔵」。
 菊池一族である赤星統家が龍造寺隆信に人質として差し出していた2名の子供が、処刑された場所にある地蔵尊です。
 隈府城主だった統家は、14歳の嫡子・新七郎を人質に出していました。隆信は統家を柳川に呼び出しますが、蒲池氏を呼び出して暗殺していた隆信を簡単に信じる訳にもいかず、統家は渋っていました。
 隆信は使者を差し向けますが、たまたま統家は留守。そこで使者は統家の8歳の娘をさらって帰ります。居留守と思った隆信は激怒、新七郎と一緒に二人をここで磔にしたそうです。


 新七郎は立ち会いの武士に隈府城の方角を聞き、「わが面西にな向けぞ赤星の親に後を見せじと思へば」と詠んだとか。
 激怒した統家は、やがて沖田畷で恨みを晴らすことになります。

 次に訪問したのが「竹井城」です。
 第14代菊池武士公の時代、筑後溝口城を失った菊池方は、兄の木野武茂が大城藤次と共に山門郡竹井城に入ります。筑後進出、さらに北への進出拠点としたようです。
 竹井城は別名萱津城とも竹井萱津城とも呼ばれます。資料によっては、武茂が入った竹井城を、久留米市にある草野氏の竹井城としているものもありますが、溝口城を失った後という状況を考えれば、そんな北にいきなり進出できるはずもなく、誤りでしょう。
 ここは現在「竹飯」で、「竹井村」と「飯尾村」が合併してできています。また、ここからすぐ西にある早鷹宮は「海津(かいづ)」です。「萱津(かやづ)」との関連が想定されます。
 さてその竹井城ですが、実は正確な場所はわかっていないようです。個人のサイト頼りですので、誤りの可能性もありますが、そこでは竹海小学校(28年3月廃校)としています。

 ただ、確かに南は飯江川が流れ、小学校は少し高い場所にありますので、もしかしたらそうなのかもしれません。
 2ヶ月超の戦いの末、竹井城を失ってしまった武士は、さらに一時期本城まで失ったため、家督を退く決意をします(ただし、「しかるべき人物に」と言っており、武光に、とは言っていない)。

 そのまま西北の阿蘇神社(早鷹宮)へ。多々良浜の戦いから撤退する恵良惟澄が、大木貞久に世話になったお礼に勧請したとされます。

 立花家の小野和泉との関係を説明する看板が新しくなっていましたが、内容は同じでした。

 すぐ近くに、田尻氏の板碑の案内板があったので立ち寄ってみました。

 推定田尻親種の妻の供養塔で、子・鑑種らが建てたとされます。

 その後は仕事に復帰する途中に江浦城の前を通過。

 この裏にある淀姫神社が、立花氏ゆかりというのをかなり昔に何かの本で読んだ記憶があるので向かったのですが、駐車スペースがなかったのでとりあえず今回はパス。

 そして仕事帰りには、恵良惟澄が大木貞久にお世話になった大木城の城址碑に寄り道しておしまいです。

 スマホのカメラだと色々と限界がありますね…。
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