前日に翌28日は快晴の天気予報を見て、宿願だった天山に登ると決意。3/2は足利尊氏の武家方vs菊池武敏ら宮方の「
多々良浜の戦い」が行われた日。足利尊氏が九州に来たことを知らない人が多いですが、これに敗れていれば室町幕府はなかったという重要な戦いです。
これに参戦した阿蘇惟直公と弟・惟成公は逃避行中肥前で自害or戦死しており、天山に惟直公のお墓が立っているのです。
ついでに小城、神埼あたりの城めぐりのプランを立てます。
プラン:淀姫神社→古湯城→天山→晴気城→千葉城→松崎城→横大路城→種福寺→勢福寺城→菩提寺城→仁比山城→鎮西山城→千栗城
初訪問の城てんこもりなので、所要時間は計算できず、時間と体力と相談して適当なところで切り上げることに。わくわくしてその日は一睡もできませんでした(けど出かけました)。
まず淀姫神社と古湯城。古湯城はつい最近王将戦第二局が行われた古湯温泉の城山にある城です。
多々良浜で重傷を負った惟直公は、三瀬峠越えで神埼を抜けて退却しようとしていましたが、ここ古湯で傷を癒していたところを千葉胤貞の兵に発見されます。
その後の兄弟については諸説あり、
・西に天川を遡って天山山中に入り、先行していた惟成公は行方しれず(田夫に捕らえられ行方しれず:『太平記』)。惟直公は最後の戦いを挑んだ後割腹し、胤貞に「阿蘇の噴煙が見える小杵山(天山?)に葬ってくれ」と遺言。
・戦いの最中兄弟で天山に登り、阿蘇の噴煙を望みながら共に自刃。
などがあります。
さて、城山麓の淀姫神社境内には「九郎堂」が立ちますが、これは阿蘇「九郎」惟成公が重傷を負ったものの実は生きており、古湯で傷を癒し定住し、九郎堂を建立したという説から来ているようです。
さすがに生存説はないと思いますが、惟成公の名前が語り継がれているのは嬉しいですね。
さて、淀姫神社北西の松城山(417m)にある古湯城は、その時惟成公の家臣・原隼人によって築かれたといいます。これが本当なら、何かあったときに古湯で傷を癒す惟直公を守るために急造されたのでしょう。
遺構としては石積や腰曲輪が残るシンプルな造りのようです。
「城山展望台」というだけあって、古湯温泉街を一望できます。
なお、駐車場から山頂までの所要時間は5分でしたが、小山と侮ってストックなしに駆け足で登ったので、しょっぱなから結構なダメージを負ってしまいました。
次はそこから西に車を走らせ、天山に向かいます。
天山には阿蘇惟直公の墓が建ちますが、これは敵ながら心を打たれた千葉胤貞が遺言通り建てたという説と、住民達が哀れんで建てたという説があります。
さて今回は下調べでは一番近いように見えた、北側の天川駐車場からのアクセスを試みました。足場は悪かったですが、約15分で頂上に着くことができました。
360度視界が開けています。この日は天気がよく、南側には雲海が広がっていました。
阿蘇惟直公のお墓から阿蘇山方面を見てみましたが、阿蘇山を見つけ出すことはできませんでした。
普賢岳が辛うじて見えるぐらいですから、よほど空気が澄んでいるか、よほどの視力の持ち主でなければ難しそうです。
しかし、今は車があるから良いものの、武装して、さらに死の追いかけっこをされながらここまで来たとしたら、かなり辛かったと思われます。
続いて天山を南下し、小城町晴気の晴気城…はスルーして(武澄公が攻め落とした重要な城なのですが、あまり情報がないので)、例の千葉氏の千葉城へ。
牛頭山に築かれた城で、現在展望台がある千葉公園とさらにその下の神社は出城で、最も高い地点が本城とされます。築城は文安2(1445)年ということですので、武澄公とは関係なさそうです。
千葉公園から本城を目指しましたが、途中の藪の中に段曲輪と、所々に石積を発見。
しかしこの石積は遺構とは関係がなさそうです。
本城には蜜柑畑がありますが、これらは帯曲輪を活用して畑にしたのか、それとも畑のために整地されたのかよくわかりません。
お次は神埼まで移動します。神埼の日の隈公園を含む山には、松崎城と横大路城があります。隣の西九州大学にはかつて週一度仕事に行っており、「いつでも行ける」と思っていたら結局行かずじまいだったのです。
まず松崎城へ向かいます。最初は遊歩道がありますが、途中からは地図ロイドを頼りにやや藪を漕いで段曲輪に入り、それを伝っていくと主郭に到着します。
主郭をぐるりと囲むように土塁が。
続いて横大路城へ。いったん下山してからとも考えたのですが、地図ロイドを頼りにそのまま直行することにしました。
すると何とか北の曲輪に到着したようで、堀切と出くわします。
進むと再度別の堀切に出くわし、二つある広い曲輪のうち、北の曲輪へ到達しました。
土塁が一部残存しています。
縄張り図にある土橋はわからなかったものの、堀切を超えて南の曲輪へ到着します。そして南側を見下ろすと、空堀がぐるっと囲んでいるではありませんか。
空堀をたどって歩くと、先ほど越えたと思った堀切とつながっていました。つまり、空堀が周囲を完全に囲っていたわけですね(土橋あったっけ…)。ということは、この防御具合から北ではなくこちらの南の曲輪が主郭だったのでしょうか。
さて、この松崎、横大路両城には、菊池武安公が肥前制圧の際に兵を入れています。元々菊池方だったのか、それとも奪ったのかはちゃんと調べてみないと分かりません。
(結果的に)最後に向かったのが勢福寺城です。少弐や龍造寺氏の城として有名なお城ですが、武安公が拠点とした仁比山城は、この勢福寺城ではないかという説もあるのです(ex.城郭大系)。
その勢福寺城へは、近年登山道が整備されました。登山口の種福寺には江上家種の墓があります。
お寺の方にお聞きすると、山頂までは30分ぐらいではないかとのことで歩き出すこと約10分、堀切に出くわします。
その後も小さめな堀切を超えていくと、「展望岩」なるものがあり、ここからは先ほどの松尾城や長崎道を見下ろすことができます。ということは、いつの間にか城郭大系の「三の丸」は通り過ぎてしまったのか。
さらに進むと土塁に囲まれた平坦地に到着。どうやら二の丸のようです。
そして井戸。内壁は岩で固められています。このあたりが本丸でしょうか。
そして大きめの土塁があります。土塁上から見下ろすとその下には虎口があり、虎口を守るためのものでしょうか。
先には巨岩が露出した堀切。
説明板や道が整備されているのはここまででしたが、さらに尾根を北西に進んでいくと複数堀切に出くわし、さらに土塁が残り、腰曲輪らしきものを備えた曲輪がありました。
その先も少し進んでみましたが、北側は傾斜が急で引き返すことにしました。
なお、この次は菩提寺城があったとも、実は同じくここが仁比山城なのではないかと言われる土器山に行く予定でしたが、勢福寺城から見た土器山を見てあきらめました。
あれにこれから登るのは無理だ…。
松崎城や横大路城がよく見える場所だし、もうここ勢福寺城が仁比山城だったことにしれくれればいいのに。築城時期も近いんだし。
なお、寝不足の上に食事は天山で食べたおにぎり一個でした…。
文献 『日本城郭大系17』 『菊池市史』 天本孝志『九州南北朝戦乱』 荒木栄司『九州太平記』『菊池一族の興亡』 中武安正『菊池氏を中心とせる米良史』