3/7のことですが、
またも倭城でお世話になった黒田慶一さんに便乗して、
筑前鷹取城に行ってきました。しかも木島孝之さんのガイド付き。
鷹取城といえば、六端城ということで世間には知られているかもしれませんが、菊池武宗が落城させたかも知れない菊池氏関連史跡なのです。ただしこの菊池武宗がどういう人物なのかよくわかりません。1399年と言えば
菊池武朝公時代ですが、武朝公の命を受けて攻略したのかもよくわかりません。
ともあれ、その鷹取城、不法投棄を警戒して林道に車で入れないため、林道を歩くことになります。舗装された道を歩き、ちょっと山道に入ると秋月期と思われる遺構を横目にみながら歩くこと1時間半、主郭に到着します(ずっと山道というルートを仕えば時間はいくらか削減されますが、その分体力の消耗が大きいようです)。
最初は「あの(奥の)山ですよ。はは、すぐですよ」と言われ、いくら歩いても近付いてこないので不安に思っていたら、あれは福知山でした。木島さんでもうっかりがあるようです。
主郭はこじんまりとしており、外郭は外枡形、主郭は内枡形という合理的な造りだったようです。ただし、このこじんまりとした造りに母里太兵衛は「いかんやろ」と主君黒田長政にクレームをつけたようで、長政の「攻められてもちょっとすれば援軍が来るけん、そこまで気張らなくてもよか」という返事に太兵衛は激怒し、「そげな城を誰が守るか」と築城をボイコットしたとか。長政の本音は父時代からの重臣とは言え、立派な城を与えて頭に乗られては困るという感じだったようです。
木島さんによると、黒田は細川との国境に城を配置しているものの、細川の方はそうではないようです。例の事件で細川も黒田に対する嫌がらせはしているようですが、きっかけを作った黒田の方に負い目があって築城したのでしょうか。
さて、この城は秋月の遺構も良く残っています。畝状竪堀は本数は長野城ほどではないものの、一本一本の大きさは目を見張るものがあります。写真ではわかりにくいでしょうが…。
残念ながら、いずれの遺構も菊池武宗が攻略したときにはなかったのでしょう。
ところで、この日は木島さんからは非常に面白いお話を聞くことができました。お話ししても良さそうな範囲でご紹介します。
某局から木島さんに「会津若松城が落ちたのは糞尿のせいというコメントをしてくれ」、という依頼あったとか。木島さんは「糞尿の話は他の籠城戦でもあるし、落城の理由はそれだけではないだろうし、第一そんな放送したら白虎隊やら会津魂を汚したというクレームがくるからやめとき」というアドバイスをして丁重に断ったところ、それを無視して放送したら、案の定謝罪文を掲載する羽目になっています。
他のお話しとしては、話題になっているらしい佐世保の小佐々城麓の水軍城と称する石積みは、行けば単なる農耕遺跡であることが一目瞭然であり、教育委員会も無視しているとのことで、それがなぜここまで話題になってしまったのかその背景も教えてくれました。
杉山城問題についても詳しく教えたいただきましたが、私は杉山城をそもそも知らなかったのでよくわかりませんでした。
※ あくまで私の記憶に基づいています。
PR
COMMENT