文永の役については
前回まとめましたが、今回は
弘安の役についての備忘録です。
○弘安の役
・5月15日の壱岐での戦いでスタート。5月下旬に蒙古軍が志賀島占領。その後閏7月上旬まで戦いは続いた。
・
菊池武房公や竹崎季長が
生の松原にいたのは、志賀島の蒙古勢(東路軍)と対峙していたからであり、『蒙古襲来絵詞』で描かれた戦いも
鷹島ではなく志賀島だった。
・石築地の効果で撃退を続けたが(ただし、今復元されているのは高すぎ)、おそらく部分的には突破を許したこともあり、河川・河口干潟からは何度も侵入を許すなど蒙古勢の攻撃も激しく、蒙古側の記録では少弐宗資という人物が生け捕りにされているが、後世の少弐家伝からは消されている。
・『絵詞』の志賀島に描かれている水の中の男は、偵察に行った竹崎季長と考えられる。
・志賀島や能古島の蒙古勢に日本軍が攻撃し、三隻拿捕するなど反撃の成果を挙げていた。そんな中、江南軍がやってきて平戸を占領、志賀島への途上で鷹島に上陸する。
・攻略目標である大宰府の前面である志賀島から軍勢を鷹島に移動させる道理はなく、移動したのは補給督促の一部の軍勢。
・鷹島の蒙古軍と対峙していたのは、北松浦郡星鹿の日本軍で、となると総大将は肥前守護北条時定となり、少弐景資という通説は誤り(せっかくかっこわるい石像があるのに…)。
・大型台風はたしかにやってきたが、被害はむしろ小さな船の日本側に多く、神風ではなかった。日蓮はそれを受けて台風を「日本国の凶事」とさえ言った。『絵詞』に描かれた船は積載過剰で、季長も乗る船に困っている。
・『絵詞』に台風のシーンがないように、武士達は自分たちの働きで蒙古を撃退したと考えた。おそらく、志賀島の台風の被害は鷹島よりも軽微。
・鷹島で沈んだ蒙古勢の船は、帰れなかった人数3000人から計算すると、20隻程度。
・船は20隻沈んでも、将兵達はその上で生活していたわけではなかったので、兵員が激減したわけではなかった。しかし、船を奪う以外に帰還の道はない死にものぐるいの状態。
・台風後の7月5日に志賀島で合戦し、日本軍勝利。
・7月7日には鷹島で合戦。死にものぐるいの蒙古軍だったが、指揮官が逃亡していたため日本軍が圧勝。捕虜は約2000人。
・蒙古側は敗北を台風のせいにしたかったし、日本側も日本=神国の神話に「神風」を利用したため、通説が定着した。
非常に読み応えがありました。しかし、人々の中の通説を覆すのにはかなりの時間を要することでしょう。
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