昨年末出版された服部英雄著『蒙古襲来』を、適当な章からゆっくりと読んでいます。
通説にとらわれることなく、蒙古襲来絵詞を軸に蒙古襲来の実像を明らかにするというもので、非常に読み応えがあります。『八幡愚童訓』に対する批判は辛辣です。
読んでいると、以前にも「通説」に疑義を挟んだ人はいたものの、戦前の雰囲気で消し飛んでしまったものもあったようです。
興味深かったところを、
文永の役を中心に、備忘録的に箇条書きしてみます。
○文永の役
・蒙古勢の将兵は約5600人。
・対馬では激戦は行われていない。
・日本側は1日で水城まで撤退なんてしていないし、蒙古勢の攻略目標である大宰府警固所(現・福岡城あたり)を死守していた。
・上陸戦は夜襲(10月19日夜)、その後も夜戦、夜襲の繰り返しで、「我こそは…」なんて名乗る戦いは行われていない。
・少弐景資が劉復亨を射たというのは副将が先頭にいるわけがなくウソ。また、「流れ矢」は常套句で、本営まで日本軍が踏み込んだ上に射撃して傷を負わせたと考えられる。
・10月20日夜は日本軍が海上で夜戦を仕掛けているから、蒙古勢が台風で1日で壊滅・撤退したはずがない。そもそもそんな史料はどこにもない。
・10月24日にも合戦の記録があり、蒙古勢は大宰府警固所の掌握に失敗している。冬になると日本海の行き来が難しく、撤退・補給が困難になるため推定27日以降月末にかけて撤退。
○菊池一族や竹崎季長について
・我らが
菊池武房公がまず戦って撃退する手柄を挙げているから、その後の竹崎季長の「先懸」「一番」は大した功ではなく、
海東郷地頭職が与えられたのはこの時ではない。
・
シンポジウムでも言っていたが、武房は相当な財力だった。
・澁谷龍氏は
『探求菊池一族』にて、菊池惣領の家紋は絵詞に見られる並び鷹の羽と一つ鷹の羽の両方としていたが、服部氏は「惣領は並び鷹の羽、庶子は一つ鷹の羽と季長はちゃんと区別させている。えらい!」と明言。
・季長の出身は玉名郡の竹崎。
・三井資長は季長の従者扱いを受けているが、実際は逆。
・季長は相当なわがまま野郎。
弘安の役についてはまたの機会に。
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