久しぶりの更新です。最近の菊池一族ストーキング活動としては、
竹之下古戦場を訪れたぐらいの不忠者です。
さて、澁谷龍氏著『探求 菊池一族』を読了しました。澁谷氏は、著書でも登場する
第22代菊池能運の子・重千代丸(武治)のご子孫を称していらっしゃいます。
「門外不出」の「超一級資料」で、「歴史的論争に終止符」というキャッチーな帯にはそそられます。
ここで登場する主な資料は四点で、以下備忘録的に主な内容をまとめてみます。なお、紺野家とは
第14代菊池武士の子・武頼を祖とするとしている方々です。南朝の勅命で諸国巡業後、陸奥に下向したとしています。
①福島紺野家所蔵の『藤原家系図』
内容:藤原家の系図で、最後に
初代菊池則隆。
作成者:則隆のみ没年がないから則隆作と推定され、第14代菊池武士が写しを作成か。
主な発見:隆家の五男基定が後の
政則であるとの記述。さらに政則の子として則隆がいる。よって、菊池一族はやっぱり藤原氏。
②福島紺野家所蔵の『菊池家系図』その1
内容:則隆の菊池下向から頼来(武頼の子)まで。
作成者:武頼、頼来の没年がないから武頼没以前の作。武士作と推定され、武頼が写しを作成か(※武士は
32才で死亡となっている)。
主な発見:a.政則の生年は1009年(997年が通説だが、もう少し早いとの説もあり、私は後者乗り)とある。すると刀伊の入寇時は11才であり、よって刀伊の入寇とは無関係。誤りは介さんのせいで広まった(これはどうか。『小右記』では1013年に政則が朝廷に珍品を献上したとあり、また『日本紀略』『御堂関白記』で政則が1015年に公卿達に孔雀を贈ったという記録と矛盾する。「対馬守従五位上藤原朝臣蔵規」や「蔵規朝臣」は「政則」とは別人だということなのだろうか)。b.菊池武義は武頼を庇護して奥州まできたことがあり、系図に
第17代菊池武朝の記述があるのは武義のおかげという(武義は武朝と共に
蜷内で戦い戦死)。よって
櫛引八幡宮の甲冑はもしかしたら子孫が奉納したのかも。c.
第5代菊池経直が家紋を一枚鷹直羽としたとあり、これは米良の菊池家系図と一致するため、家紋は並び鷹の羽と二つあったのでは(蒙古襲来絵詞の一枚鷹直羽は庶子のじゃないの、と思ったりしたが)。
③福島紺野家所蔵の『菊池家系図』その2
内容:陸奥に下向した武頼(武士の子)から江戸期の齊顕まで。
作成:1615年に子孫の紺野武徳作成。齊顕の没年ないから齊顕が写しを作成か(1690年頃)。
①~③がこれまで「門外不出」とされた理由として、明治天皇もご観になった天覧品なので、嫡子以外は拝見許さずとしたからとあります。
④石坂家先祖附
内容:主に能運の子・重千代丸(武治)以降の系譜。
作成:この本ではわからなかった。ただ、著者の祖先・菊池則重が細川藩に提出した家督相続書作成時の控えもあるらしく、それも同じような内容なのかも知れない。
発見:a.能運には子がいなかったというのが通説だが、実は重千代丸(武治)という子がいて、
第24代菊池武包没落時に詫磨武安(武包の父)が庇護して詫磨郡に隠棲して平山五郎丸と改名。b.
肥後国衆一揆の菊池武国は武治の孫・石坂次郎武国が改名したもの。c.詫磨五山があった。
まずは、やっぱり①~③の信憑性です。こればっかりは、単なる菊池ストーカーにはわかりかねますので、今後の専門家の見解を待ちたいと思います。
一番議論になりそうなのは、「はたして菊池一族は藤原氏の出なのか」でしょうが、素人が抱く疑問としては、仮にこの系図が偽書ではなく先祖代々伝わったものだとしても、藤原資房『春記』の記述をどう説明するかということです。「『春記』の記述」とは、「隆家の第一の郎等が則隆・政隆である」という内容です。孫が「郎等」であるはずがない、という志方説への反証にはなっていません。資房の勘違いなのでしょうか。なお、澁谷氏は蔵規と政則は別人だと断定しているので、『春記』の則隆・蔵隆も別人だということなのでしょう。本当にそうなんでしょうかね。明らかに6代・隆直である人物を、当時は高直と表記している書もあるぐらいだし、文字の違いはあまり理由にならないかと。
なお、私自身は菊池一族が藤原氏の出である/ないについては、あまり関心がありません。そもそも菊池一族に関心を持ったのは、
元寇における
第10代菊池武房公の活躍と、その後の一族の波乱に満ちた歴史(主に室町初期まで)そのものにありますので。
その他興味深い点としては、
菊池武敏の行動と子孫です。姿が見えなくなった武敏は、実は北畠氏と一緒に奥州に行っていたという説は目にしたことがありますが、四国に子孫を名乗る人々がいるとは知りませんでした。
また、
阿尾城の菊池武勝が武敏系という説はありましたが、この本では武敏の子でも武世系ではなく、武平系の貞頼の子の末裔説をとっていました。射水市の八代城は、貞頼終焉の地である八代から名前を取って築城したという説は興味深かったです。貞頼の子とは「次郎」で、その曾孫を武勝としています。
加藤清正の側室
本覚院が武国の女であるというお話しは、『加藤清正妻子の研究』で既に指摘されていますね。その子が
加藤忠正です。
新たに加わったストーキング対象地は、四国では大洲市の菊池武敏顕彰碑と菊池神社、八幡浜の菊池城。大洲や八幡浜には昨年行ったのに…。
他は射水市にある八代城と誓光寺。熊本では詫磨五山南福寺であった梅谷寺、植木にある武澄創建という福照寺でしょうか。
以上、備忘録的にまとめてみました(※気づいた点があったらたまに加筆しています)。
PR
COMMENT
企画展
いつも興味深く読ませて戴いております。
以下、情報です。
玉名市立歴史博物館こころピア
にて上記の「福島の菊池一族」企画展が11月1日より
開催されます。ご存知でしょうか?
ありがとうございます
講演会に行けるかどうかは微妙ですが、展示には足を運んでみたいと思います。
更新を怠けてしまっているブログとサイトですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。