文明17年、御船か
馬門原で戦死した出田秀信には三人の子がおり、重綱が跡を嗣ぎました。しかし秀信戦死以後の出田氏が勢力を失った関係でしょうか、重綱の次を嗣いだ政冬は、城氏からやってきています。それ以降も城氏からちょくちょく人がやってきては跡を嗣いでいます。
さて、その中の一人に、出田武房という人物がいます。武房という非常に素晴らしい名前をもらっていますが、城親賢の子で、まず豊臣秀吉、そして加藤清正に仕えました。加藤家改易後は細川家に仕え、やがて死去します。彼の墓があるのが流長院です。
1600年、肥前から来た伝志麟的によって開かれ、当初は広大な寺地だったようですが、空襲で焼けたり坪井川の水害で被害を受けたりで、その時記録が失われてしまうなど、現在は小規模なつくりになっています。
では出田武房の墓はどれか、ということなのですが、これがわかりませんでした。お寺の人に聞けば良かったのですが、不在でした。
五輪塔が数基並んでいましたが、このどれかなのでしょうか。
なお、この日は夏の雨上がりで、墓に近づく気になれませんでした。次回訪れることがあれば接近してみようと思います。
さて出田武房ですが、慶長伏見地震の時に、伏見城の秀吉のもとに駆けつけた清正と行動を共にしており、後からやってきた石田三成を一喝したという記録をどこかで目にした記憶があるのですが、それが思い出せません…。
次は出田武房の父・城親賢のお墓について。
【文献】
『菊池氏史要略』
『熊本の神社と寺院』
【広徳山流長院】
熊本市中央区壺川1丁目4-23 Pはあったけど専用駐車場かは不明
より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後) を表示PR
COMMENT