前回ご紹介した出田武房の父・城親賢について今回はご紹介します。
出田氏と城氏の関係は深く、出田氏は途中から城氏が嗣いでいます。まず親賢の叔父・政冬が出田重綱の養子となり、次に親賢の弟・親基が政冬の子・重基の養子となり、さらに親賢の次男・武房が親基の養子となり…、と結構面倒くさいです。
城親賢は大友氏が耳川で敗戦すると大友氏から距離を取り始め、隈本支配を安定化させるために御船の甲斐宗運と白川
旦過瀬で戦います。甲斐宗運も元は菊池一族ですから、一族同士の戦いだったわけです。その後は島津・龍造寺の勢力に挟まれ、舵取りに苦労している最中に死去したとされます。
彼の墓は岳林寺にあります。
立派なお寺ですが、元々は石神山の東南にあったそうです。現在地は石神山の北西ですから、山の正反対に来たわけですね。移転の理由は、延宝二年、藩士の屋敷地として提供するためだとか。
お墓は白い標柱つきです。
城親賢は植木市の生みの親であるため、岳林寺墓前祭も行われています。植木市を始めた理由は、まだ親賢が隈本城にいたとき、「子息の慰み」のために、「何ぞ珍しき」ことをやろうと思い立ったのがきっかけだとか。
さて、この墓には「出田某敬建」とあり、建立者が出田氏であることが伝わっています。しかしなぜ「某」なんてことになっているのかというと、前述の移転が関係しているそうです。
親賢の長男・久基は筑後で死去しているため、次男・出田武房かその子・親房あたりがおそらく建立したものの、
武房の死去で出田氏との関係も薄れ、移転の際に傷んだ墓を再建はしたものの、誰が建立したのかは正確に伝わっていなかったものと考えられます。
次は城親賢の父・親冬について。
【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』
【霊峰山岳林寺】
熊本市西区島崎5丁目 専用だったか記憶は定かではないが、目の前にPあり
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