八万千部の碑のように消滅してしまう史跡がある一方で、しっかりと護られている史跡もあります。
先日の講演会で紹介された、
菊池七人塚も同様です。
花岡氏同様、私も菊池から鯛生金山へと車を走らせている途中に看板を発見しました。
雨が降っていましたが、鯛生金山にもう行くことはないだろうし(といいつつ、実は翌日再度訪れる羽目になった)、スルーすると後々公開するかもしれないと車を停めました。
個人の敷地内でしたので、インターホンを押すも返事はなし。失礼ながらお邪魔してきました。
標柱には昭和51年11月1日「村」指定史跡、説明板には「市」指定史跡とあります。
さて、文献でも読んだことない史跡でしたので、まず説明板に目を通すと、「菊池氏の重臣達が戦に負け、ここに落ちのびで自害した(要約)」とあります。しかも、命日は11月11日と具体的です。
何年かは不明ですが、11月前後にどこかで大きな戦があったのでしょうか。落ち延びたと言うことはおそらく負け戦、しかも南南西の菊池に帰っていないということは、本拠より北東での戦いかな、と年表に目を通したものの見つからず、とサイトのページには書きましたが、よくよく前半を見ると1185年、
第六代菊池隆直公が義経の使い・緒方惟栄めと11月に戦ったとありました。壇ノ浦終わっていますが、それでも揉めていたんでしょうね(2/21加筆:やはり時期的に関係なさそうです)。
とは言っても、もちろん本当にその時のものかは不明です。花岡氏は日田市に問い合わせたけど不明、地元の人もわからないとのことです。
ただ、しっかりと残していてくれているのはありがたいことです。もしかしたら、いずれどの戦いのものか判明するかもしれませんし。
なお、塚の横のお堂には
このような観音様が安置されています。台の部分には建立した人々の名前がありますが、この名前も、周辺の家々の表札の名前も、あの菊池一族重臣の姓です。
もう脱線しまくって、次回は鯛生と菊池一族の関係について。
【菊池七人塚】
日田市中津江村合瀬(柿ノ谷) Pなし
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