鯛生金山を訪れた際に、
前回ご紹介した菊池七人塚に出くわしました。
その時は雨天でしたが、もう鯛生金山に来ることもないだろうから…、と車を停めたのでした。しかし、鯛生金山のトイレに財布を忘れてきてしまっため、翌日再度訪れることになりました(財布は親切なバスの運転手さんが届けてくれていました)。
ならばせっかくなので、近辺の菊池一族に関係する史跡に行くことにしたのですが、そもそも「鯛生」という地名そのものが、菊池一族と関係があるのです(以下、
サイトに掲載している内容とほぼ重複します)。
1334~1339年ごろ、ここの豪族だった田島舎人という人物が、菊池氏から嫁を迎えることになったそうです。誰の娘さんかはわかりませんが、第13代
菊池武重公の頃ですね。
なお、田島氏の子孫は今でもこの地に住んでいるようで、立派なお屋敷があります。
さて、推定武重公は、田島さんに何か珍しいものを贈ろう考えたらしく、生きた雌雄の鯛を引き出物にしたそうなのです。しかしこの地に着くと、鯛が躍り上がり別々の岩石に付着してしまいました。この雌雄が互いに向き合った岩を鯛生岩と呼ぶようになった、というのが「鯛生」の由来だそうです。
その2つの岩ですが、現在は一つしか残っていません。
これが「雄岩」だったと思います(※金山の説明書きでは雌岩になっていた気がしますが、後のエピソードのように、たしかにこの敷地のご老人はこちらを「雄岩」と言っていた記憶があります)。敷地のご老人によると、雌岩もかつては少し離れた所にあったそうです。
このあたりに雌岩はあり、その上に木が被さっていたそうです。その木が嵐で倒れたときに、何も知らない若い人たちが動かしてしまい、どれかわからなくなってしまったそうです。
ところで、ご老人にからは、ご先祖から聞いたという別の由来も教えていただくことができました。記憶が曖昧ですが…。
信濃の豪族がこの地に落ち延びてきて腹を切った。その人物は鯛の木彫りを抱えており、その自刃の地が後に「雄」岩となった。ここまでは何となく記憶に自信があります。そして、後にこの地にその妻がやってきます。妻は夫がここで死んだことを知り…
a.自らも自害し、それを悼んで地域の人々が祠を建てた場所が雌岩。
b.夫を弔うために祠を開いた場所が雌岩。
c.そもそも夫の消息がわからず祠を開いて生活した場所が雌岩。
三つのどれだったか、それともこれらがミックスされていたのか、記憶が曖昧です…。
ということで、次回もさらに脱線を続けて、付近の菊池氏関連史跡をもう一つ。
【鯛生岩】
日田市中津江村合瀬 雄岩は個人の敷地内です
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