色々と話が飛んでいますが、大智を菊池一族に消化したのは以前ご紹介した
山鹿の日輪寺を開いた天菴懐義であり、それは第13代菊池武重公に対してであろうと阿蘇品保夫氏は言います。
一方で、大智を菊池に招いたのは第12代菊池武時公であるという説があります。例えば平泉澄氏は武時公と大智との関係を示す資料はないことから武重公と断言しましたが、聖護寺を再興させた村上素道氏はそれに猛反論したと何かで読んだ記憶がありますが忘れてしまいました。
それはともかく、聖護寺は龍門村字鳳儀という山奥に建てられました。
撮影は2011年2月19日ですが、まだ雪が残っています。
山奥とは言え車で行けますが、離合(九州でしか通用しない言葉?)がほぼ不可能な狭い道を行かねばなりません。
この聖護寺に勉学に行く途中に「菊池公」が休憩したという「休み石」がありますが、休むのはまだ早かろうもんという場所にあります。
迫間滝を眺められる場所です。「菊池公」はやっぱり武重公でしょうか。
ともあれ、大智はこの山奥で約20年も生活したようで、多くの菊池一族がここを訪ねたようです。武重と大智のこんな姿がそこにはあったのかもしれません。
大智(ぷぅ~)
武重「(くさい…)」
聖護寺には大智の墓があります。看板はありません。
大智の墓は複数あるのですが、いずれご紹介することもあるでしょう。
菊池一族の精神的支柱として君臨し、「鳳儀の方丈」として影響を与えた大智もやがて菊池を去ることになります。しかしそれは菊池一族が衰退したからではなく、第15代菊池武光公の全盛期に。
(たぶん)次回はその背景と合わせて大智が移った先のお寺について。
【文献】
『菊池市史』
阿蘇品保夫『菊池一族』
平泉澄『菊池勤王史』
【鳳儀山聖護寺】
菊池市班蛇口 Pあり
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COMMENT
No Title
こんな歴史があっても当時は全く気にもとめてませんでした。(笑)