677年前(延元元年:1336年)の今日、現在の福岡の多々良川河口付近の多々良浜で、足利尊氏率いる武家方と菊池武敏公率いる宮方との戦いが起こりました。
「え?足利尊氏って福岡に来たの?」と聞かれることがあるぐらい、歴史教科書ではスルーされてしまいがちですが、これは南北朝期がナイーブな話題だからでしょうか。
ともあれ、大雑把な経緯はこうです。建武の新政による武士の不満は鬱積し、それを酌む形で足利尊氏が離反、後醍醐天皇の建武の新政は崩壊します。尊氏は後醍醐天皇を敵に回すのではなく、あくまで君側の奸である新田義貞を討つとの名目でしたが、後醍醐天皇は尊氏討伐令がを出します。この時第13代菊池武重公は後醍醐天皇の呼びかけに応じ上京し、菊池千本槍の逸話を残す活躍を見せることになります。
さて尊氏は中央の戦いで敗れ、九州へ逃れます。この時、赤松円心のアドバイスで光厳上皇の院宣をゲットします。
九州では足利尊氏が来るという知らせを受け、宮方がこれを迎え撃つことになります。宮方の主力となったのは菊池勢ですが、当主の武重公が上京して不在のため、弟の九郎武敏公を総大将に菊池・阿蘇勢を中心に形成されます。いつも不思議に思うのですが、この時武澄公は何をしていたのでしょうね。
宮方は激戦を繰り返しながら北上し、
有智山城では少弐貞経を自害させ、博多合戦での父・武時公の仇討ちに成功します。
そして多々良川を挟んで両軍は対峙することになるのですが、現在の東区の流通センターのあたりだったとされ、現地には「多々良潟の碑」が立ちます。
足利勢は川を挟んで北に陣を敷き、尊氏は現在水道タンクが複数ある丘陵を本陣としたようで、現在も「
陣の越」と呼ばれています。この要所に陣を置けたのは尊氏にとっては大きかったようです。
現地には看板が立っています。
さて、両軍の数は『太平記』では宮方3万vs武家方3百、『梅松論』では6万vs1千とありますが、当主でもない武敏公がこれだけの数を率いられるはずはなく、実際はほぼ同じぐらいだったのを、苦戦したので菊池勢は大軍だったということにしてかっこつけたのだろうという説があります。ただ、尊氏が開戦前に絶望したと言うぐらいですから、宮方の兵力が多かったのではないでしょうか。
ともあれ、宮方も連戦の疲れが蓄積している上に、士気が高いのは菊池・阿蘇勢など一部でした。しかも高所に陣をとっている足利勢は風上から攻撃をしてきたため、苦戦を強いられます。強風で前進できず、矢が風の乗って飛んできて不利に陥りましたが、武敏公が陣頭指揮を執って盛り返し、尊氏の弟・直義は死を覚悟しますが、その奮戦に発憤した尊氏や足利勢も決死の覚悟で戦います。そして宮方だった松浦党らが後方で武家方に寝返ったため、激闘3時間、宮方は敗北してしまうのです。これを「
多々良浜の戦い」と言います。「川」ではなく「浜」であるのは、当時は埋め立てがされておらず、現在と海岸線など地形が違ったのでしょうね。
その戦死者を弔う「
兜塚」が現在も流通センター付近に残っています。流通センターの建設の際に、地中から何か発掘されるのではないかと期待されたそうですが、何も出てこなかったようです。
その後、武敏公は追撃を受けながら何とか菊池に逃れますが、阿蘇惟直・惟成公は天山で自刃したというのは前回ご紹介したとおりです。
勝利した尊氏は九州の軍勢をまとめ東上し、新田・楠木勢など宮方と戦い勝利することになります。その後すんなり尊氏が安定した政権を樹立できたわけではありませんが、この戦いは宮方からすれば尊氏を討ち取る千載一遇のチャンスを逃したことになったわけです。
尊氏の評価は後醍醐天皇に背いたと言うことでずっと酷かったわけですが、再評価されてきています。少なくとも、戦は強く、人に優しく、物欲がない人間としては好人物だったようです。冷酷になりきれず人が良すぎたために、戦乱を長引かせる要因を作ったとも言われますが。
しかしここですんなり尊氏が討ち取られていたら、その後の戦乱で菊池一族が名前を残すこともなかったかもしれないわけですね。