菊池では
古池城を本拠とし、隈本城の前身にあたる
肥後千葉城を築城した出田秀信は、文明17年戦死します。
出田系図には御船(御船陣原という書籍も)にてとあり、菊池市史には馬門原の戦い(幕の平の戦い)にてとあります(他の文献では先鋒を務めたと具体的な記述も)。御船と馬門原とではそこそこ距離がありますが、小競り合いも前後にあったでしょうから、一連の戦いの過程で戦死したということなのでしょうか。
一連の戦いとは何か、となるのですが、話は馬門原の戦いから遡ること1年、文明16年4月の赤熊の戦いに触れなければなりません。
赤熊とは現在の熊本市南区富合町木原あたりです。第21代菊池重朝公と、その叔父に当たる宇土為光公が戦ったのですが、この戦いは宇土為光が菊池を乗っ取ろうと起こした戦いだとされてきました。
しかし阿蘇品保夫氏の研究では、為光が戦をふっかけたにしては戦いの場所が宇土氏の支配領域にあまりに近すぎること、菊池氏はたしかに斜陽であったもののまだ宇土氏が戦をふっかけて勝てるほど落ちぶれていないなどから、むしろ重朝方から攻め寄せたものと指摘されています。
宇土氏領内の郡浦をめぐる宇土氏と阿蘇・菊池氏の争いが背景にあったなど、詳細は阿蘇品氏の『菊池一族』をご参照いただくとして、私もこれに賛同します。ともかく赤熊の戦いは菊池方の勝利に終わり、為光は亡命し、相良氏を頼ることになりますが、ここに火種が残ったのでした。
馬門原(幕の平)は「益城郡矢部」にあります。現在の山門町杉木に石柱がたちます。
周辺はどんなところかというと…
森に囲まれた平地で、現在は畑になっています。戦いが起こった場所ですから、てっきり小川でも流れているのかと思っていました。他の文献でみた写真とも風景が違いますので、そもそもこの石柱が正しいという保証もありませんけどね。
文明17年12月、戦いは為光が亡命した相良氏と阿蘇惟乗連合軍がまず1つ。もう一方は菊池重朝と阿蘇惟歳・惟家連合軍で、阿蘇家の内紛も絡んでいたわけです。
戦いは菊池方は「宗たる面々」数十人が討ち取られたそうですから、この中に出田秀信も含まれていたのかも知れません。結局は相良・惟乗方の勝利に終わり、宇土為光は宇土に復帰し、相良氏は八代、豊福を得ることになります。ただし、八代と豊福は、後に第22代菊池能運公によって奪還されます。
なお、私が作成した
馬門原の戦いページとWikipediaの内容が酷似していますが、作ったのは私が先です。参考文献も違います。常々学生さんにはWikipediaは信用するなと行っていますが、私のサイトごときと意図的かどうか内容が酷似しているぐらいですから、やはり、といったところでしょうか。
次回は出田氏の話に戻り、出田武房という人物について。
【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』
『熊本の古戦場』
『熊本の城』
【馬門原古戦場】
上益城郡山都町杉木 Pなしも駐車可能
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