菊池に行けないのならと、菊池気分を味わうために筑紫野市歴史博物館の「南北朝時代の筑紫野」のイベント、佐々木氏の講座を拝聴してきました。
針摺合戦と言えば、みっくんが一色勢を撃破した戦い。
大原合戦と言えば、みっくんが少弐・大友勢を撃破した戦いです。何か新しいお話しが聞ければと参加してみました。
さて、序盤は背景や人物相関の話、両合戦の話もさらっと話をされたので、これはそろそろ退出かなと思ったのですが、その後の脱線気味の話が興味深かったです。
時系列は忘れましたが、以下ポイントを列挙します。
・筑後川の戦い、大原合戦、大保原の戦いと色んな呼称があるが?
「筑後川の戦い」が誤りであることはわかっていましたが、では大原なのか大保原なのか。佐々木氏は一貫して「大保原の戦い」と呼んでいました。その理由が興味深いです。
多々良浜後に武敏公が武家方と戦った「六段河原の戦い」@広川町なるものが軍忠状に残っているそうです。しかしこの「六段河原」、広川町のどこにもありません。ただし、「六田」という集落がたしかに広川(河川)沿いにあります。つまり、余所からやってきた人物が自分の軍忠状をしたためる際に、地元の人にここはどこか尋ねた際、地元の人が「ろくたのかわら」→「ろくたんかわら」がなまって聞こえ「ろくだんがわら」になったのだと。
小郡には「大保」が今でも駅名として残っています。同じ理屈で言うと、「おおほのはら」→「おおほんはら」がなまって聞こえ、「おおはら」になったのだろうと。なるほど。私も以降、大原ではなく大保原と呼ぶことにします。
・大保原の戦いについて
服部英雄氏ほどは詳しくお話しされませんでしたが、服部氏と同じく木屋行実の軍忠状を引き合いに、太平記とは異なる見解を示していました。
・太刀を洗った場所について
山隈には
太刀洗いの碑がある一方で、太刀洗公園にも太刀を洗った場所はここだという標柱が立ちます。前者が旧福岡藩の場所であるのに対し、後者は久留米藩の場所であるとのこと。両藩が「うちんとこだ」とそれぞれ主張した結果、このようになっているとのことです。佐々木氏は明言しませんでしたが、前者は字名が太刀洗であることから、ニュアンス的に前者という見解だったように思います。
・懐良親王は大保原の戦傷で死亡したのか?
ご存じの通り、
千光寺には「親王の墓」があります。私ももしそこで親王が亡くなっているのなら、その後親王が送ったとされる書状はいったいどうなるのか、簡単に死を隠して大宰府に征西府をおけたのか疑問なので、死亡説はなかろうと思っていました。
佐々木氏も同じような理由からはっきり死亡説を否定していますが、面白いお話しを紹介してくれました。大日本史編纂のために、助さん角さんが諸国を旅した際、親王死亡説を調べるために千光寺も訪れたそうです。では助さんはなんと報告したというと、「証拠ひとつもなし」だったとのこと。なお、助さんは菊池にも来ており、
正観寺を訪れています。
また、千光寺にはその時亡くなった公家武将の墓がたくさんあり、死亡説の研究をした人もたくさんの公家武将の名前を列挙していますが、佐々木氏は親王に随行した人間を知ることができる唯一の資料である忽那氏の軍忠状に、12名しか名前がないと指摘し、それと矛盾するとのことです。その後増えたかもしれないじゃんと思ったりもしましたが…。
・懐良親王は、かね「よし」なのか、かね「なが」なのか
結論から言うと、わからない。なので、ある意味両方正しいとのこと。
佐々木氏は「なが」と呼んでいましたが、特に自信があるわけではなさそうでした。引き合いにされたのは『鎮西菊池軍記』の例のページです。ただ、『鎮西菊池軍記』は幕末に暁鐘成(あかつきのかねなり)が書いた読本で、内容には創作が多々含まれています。これを根拠にするのはどうかとも思ったのですが、紹介してくれた以下の話が興味深かったです。
非公認の墓が山中にある、終焉の地といわれる
大円寺。この大円寺が大雨だか台風かなんかで被害を受け、なにかが破損した際に出てきたなにか(記憶が曖昧)に、「金長天王」が水を飲んでうまいと言ったから山号を「玉水山」にしたと記されていたそうです。
そこで思い出したのが、その大円寺で購入した「玉水山大円寺の由緒」という冊子です。それを読むと、昭和5年の暴風雨後に、襖の下張りから発見された由来書にそのような記述があったとされます。由来書を書いた和尚さんは1644~1660年頃の住持だとのことです。この冊子よくよくみると著者は佐々木氏でした。佐々木氏は懐良親王の墓所は大明神山説をとっています。
さらに、八女に今でも続く五条家では、「かねなが」と読む家訓が伝わっているそうです。うーん、私は「かねよし」派でしたが、そう言われると心が揺らいでしまいます。
・懐良親王が明のクーデターに荷担!?
懐良親王と菊池氏が倭寇と深く関わっていたことは堤克彦氏も指摘していますが、佐々木氏によると宮方の活動と、明国が把握している倭寇の被害が驚くほど一致しているとのこと。つまり、宮方が優勢なときはおとなしく、劣勢になると活発になっているとのことです。ここまではさもありなんという話です。
ところが!そういうことで明国とも公式・非公式に交流があった親王は、左丞相・胡惟庸と、寧波の役人林賢のクーデター計画に乗っかり、武器を寧波に輸送したというのです。船が到着した時には胡惟庸は捕まっていましたが、林賢が関わっているとはバレていなかったため、林賢に渡して船は引き返したとか。
この研究はあまり進んでいないとのことで、なんて壮大な計画を持っていたんだとびっくりし、これはレア情報ゲットと喜んだのですが、帰宅して両者の名前を検索すると、同じような話が出ていますね…。
他にも面白い話はありましたが、あまり関係ありませんが
黒木城の話を最後に。
・文字にして残すと大変
黒木城と言えば、
多々良浜から退却する菊池武敏が籠もった城であり、戦国期には立花・高橋の大友軍によって落城させられた城であります。そのため、城には「勤王史蹟黒木城趾」と「猫尾城戦没将士之霊」の二つの碑が建っています。よくある光景です。
ですが!後者の碑にはとても複雑な背景があったのです。大友勢によって落城した大きな要因として、内通者の存在があり、誰が内通したかも名前が具体的に記録が残っているそうです(姓は教えてくれませんでした)。そして城近辺には、その後もその姓をの人々が暮らしており、非常に肩身の狭い思いをしていたそうです。その手打ちとして建てられたのが「猫尾城戦没将士之霊」であり、式典まで催されたそうです。
それでも近隣の人々の厳しい目には絶えられず、明治に名字を名乗ることを正式に許されるようになったのを機に、多くの人々がその姓を捨てたそうですが、それでも今現在、城趾付近にその姓の人々が居住しているそうです。
黒木城の発掘調査を佐々木氏がしていたとき、いつも食べ物を持ってきてくれるおじいさんがいたそうです。なんとその人は例の姓を名乗っており、「孫になんと説明したらいいものやら」と今でも悩んでいたとか。
なお、同じく八女にある高牟礼城、そこに立つ石碑に「主君ニ友キ□サレル…」という一文があるらしいのですが、最初は全く意味がわからなかったとのこと。しかし、「友」は「反」に手を加えたもの、「□(判読不明)」は「誅」を削ったものだろうとのこと。字にして残すと後々までどのような遺恨を残すかわからない、というお話しでした。
他にも色んな話があり、みっくんシンポジウムより非常にためになる講座でした。8/6(木屋行実軍忠状の日付)には小郡でも講演をされたらしく、聞けなかったのは不覚です。