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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「菊池一族」の記事一覧

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澁谷龍『探求 菊池一族』読了

 久しぶりの更新です。最近の菊池一族ストーキング活動としては、竹之下古戦場を訪れたぐらいの不忠者です。

 さて、澁谷龍氏著『探求 菊池一族』を読了しました。澁谷氏は、著書でも登場する第22代菊池能運の子・重千代丸(武治)のご子孫を称していらっしゃいます。
 「門外不出」の「超一級資料」で、「歴史的論争に終止符」というキャッチーな帯にはそそられます。

 ここで登場する主な資料は四点で、以下備忘録的に主な内容をまとめてみます。なお、紺野家とは第14代菊池武士の子・武頼を祖とするとしている方々です。南朝の勅命で諸国巡業後、陸奥に下向したとしています。
①福島紺野家所蔵の『藤原家系図』
内容:藤原家の系図で、最後に初代菊池則隆
作成者:則隆のみ没年がないから則隆作と推定され、第14代菊池武士が写しを作成か。
主な発見:隆家の五男基定が後の政則であるとの記述。さらに政則の子として則隆がいる。よって、菊池一族はやっぱり藤原氏。

②福島紺野家所蔵の『菊池家系図』その1
内容:則隆の菊池下向から頼来(武頼の子)まで。
作成者:武頼、頼来の没年がないから武頼没以前の作。武士作と推定され、武頼が写しを作成か(※武士は32才で死亡となっている)。
主な発見:a.政則の生年は1009年(997年が通説だが、もう少し早いとの説もあり、私は後者乗り)とある。すると刀伊の入寇時は11才であり、よって刀伊の入寇とは無関係。誤りは介さんのせいで広まった(これはどうか。『小右記』では1013年に政則が朝廷に珍品を献上したとあり、また『日本紀略』『御堂関白記』で政則が1015年に公卿達に孔雀を贈ったという記録と矛盾する。「対馬守従五位上藤原朝臣蔵規」や「蔵規朝臣」は「政則」とは別人だということなのだろうか)。b.菊池武義は武頼を庇護して奥州まできたことがあり、系図に第17代菊池武朝の記述があるのは武義のおかげという(武義は武朝と共に蜷内で戦い戦死)。よって櫛引八幡宮の甲冑はもしかしたら子孫が奉納したのかも。c.第5代菊池経直が家紋を一枚鷹直羽としたとあり、これは米良の菊池家系図と一致するため、家紋は並び鷹の羽と二つあったのでは(蒙古襲来絵詞の一枚鷹直羽は庶子のじゃないの、と思ったりしたが)。

③福島紺野家所蔵の『菊池家系図』その2
内容:陸奥に下向した武頼(武士の子)から江戸期の齊顕まで。
作成:1615年に子孫の紺野武徳作成。齊顕の没年ないから齊顕が写しを作成か(1690年頃)。

 ①~③がこれまで「門外不出」とされた理由として、明治天皇もご観になった天覧品なので、嫡子以外は拝見許さずとしたからとあります。

④石坂家先祖附
内容:主に能運の子・重千代丸(武治)以降の系譜。
作成:この本ではわからなかった。ただ、著者の祖先・菊池則重が細川藩に提出した家督相続書作成時の控えもあるらしく、それも同じような内容なのかも知れない。
発見:a.能運には子がいなかったというのが通説だが、実は重千代丸(武治)という子がいて、第24代菊池武包没落時に詫磨武安(武包の父)が庇護して詫磨郡に隠棲して平山五郎丸と改名。b.肥後国衆一揆の菊池武国は武治の孫・石坂次郎武国が改名したもの。c.詫磨五山があった。

 まずは、やっぱり①~③の信憑性です。こればっかりは、単なる菊池ストーカーにはわかりかねますので、今後の専門家の見解を待ちたいと思います。
 一番議論になりそうなのは、「はたして菊池一族は藤原氏の出なのか」でしょうが、素人が抱く疑問としては、仮にこの系図が偽書ではなく先祖代々伝わったものだとしても、藤原資房『春記』の記述をどう説明するかということです。「『春記』の記述」とは、「隆家の第一の郎等が則隆・政隆である」という内容です。孫が「郎等」であるはずがない、という志方説への反証にはなっていません。資房の勘違いなのでしょうか。なお、澁谷氏は蔵規と政則は別人だと断定しているので、『春記』の則隆・蔵隆も別人だということなのでしょう。本当にそうなんでしょうかね。明らかに6代・隆直である人物を、当時は高直と表記している書もあるぐらいだし、文字の違いはあまり理由にならないかと。
 なお、私自身は菊池一族が藤原氏の出である/ないについては、あまり関心がありません。そもそも菊池一族に関心を持ったのは、元寇における第10代菊池武房公の活躍と、その後の一族の波乱に満ちた歴史(主に室町初期まで)そのものにありますので。

 その他興味深い点としては、菊池武敏の行動と子孫です。姿が見えなくなった武敏は、実は北畠氏と一緒に奥州に行っていたという説は目にしたことがありますが、四国に子孫を名乗る人々がいるとは知りませんでした。
 また、阿尾城の菊池武勝が武敏系という説はありましたが、この本では武敏の子でも武世系ではなく、武平系の貞頼の子の末裔説をとっていました。射水市の八代城は、貞頼終焉の地である八代から名前を取って築城したという説は興味深かったです。貞頼の子とは「次郎」で、その曾孫を武勝としています。
 加藤清正の側室本覚院が武国の女であるというお話しは、『加藤清正妻子の研究』で既に指摘されていますね。その子が加藤忠正です。

 新たに加わったストーキング対象地は、四国では大洲市の菊池武敏顕彰碑と菊池神社、八幡浜の菊池城。大洲や八幡浜には昨年行ったのに…。
 他は射水市にある八代城と誓光寺。熊本では詫磨五山南福寺であった梅谷寺、植木にある武澄創建という福照寺でしょうか。

 以上、備忘録的にまとめてみました(※気づいた点があったらたまに加筆しています)。
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佐々木四十臣氏講座「九州の南北朝時代-針摺合戦と大原合戦」

 菊池に行けないのならと、菊池気分を味わうために筑紫野市歴史博物館の「南北朝時代の筑紫野」のイベント、佐々木氏の講座を拝聴してきました。
 針摺合戦と言えば、みっくんが一色勢を撃破した戦い。大原合戦と言えば、みっくんが少弐・大友勢を撃破した戦いです。何か新しいお話しが聞ければと参加してみました。

 さて、序盤は背景や人物相関の話、両合戦の話もさらっと話をされたので、これはそろそろ退出かなと思ったのですが、その後の脱線気味の話が興味深かったです。
 時系列は忘れましたが、以下ポイントを列挙します。

・筑後川の戦い、大原合戦、大保原の戦いと色んな呼称があるが?
 「筑後川の戦い」が誤りであることはわかっていましたが、では大原なのか大保原なのか。佐々木氏は一貫して「大保原の戦い」と呼んでいました。その理由が興味深いです。
 多々良浜後に武敏公が武家方と戦った「六段河原の戦い」@広川町なるものが軍忠状に残っているそうです。しかしこの「六段河原」、広川町のどこにもありません。ただし、「六田」という集落がたしかに広川(河川)沿いにあります。つまり、余所からやってきた人物が自分の軍忠状をしたためる際に、地元の人にここはどこか尋ねた際、地元の人が「ろくたのかわら」→「ろくたんかわら」がなまって聞こえ「ろくだんがわら」になったのだと。
 小郡には「大保」が今でも駅名として残っています。同じ理屈で言うと、「おおほのはら」→「おおほんはら」がなまって聞こえ、「おおはら」になったのだろうと。なるほど。私も以降、大原ではなく大保原と呼ぶことにします。

・大保原の戦いについて
 服部英雄氏ほどは詳しくお話しされませんでしたが、服部氏と同じく木屋行実の軍忠状を引き合いに、太平記とは異なる見解を示していました。

・太刀を洗った場所について
 山隈には太刀洗いの碑がある一方で、太刀洗公園にも太刀を洗った場所はここだという標柱が立ちます。前者が旧福岡藩の場所であるのに対し、後者は久留米藩の場所であるとのこと。両藩が「うちんとこだ」とそれぞれ主張した結果、このようになっているとのことです。佐々木氏は明言しませんでしたが、前者は字名が太刀洗であることから、ニュアンス的に前者という見解だったように思います。

・懐良親王は大保原の戦傷で死亡したのか?
 ご存じの通り、千光寺には「親王の墓」があります。私ももしそこで親王が亡くなっているのなら、その後親王が送ったとされる書状はいったいどうなるのか、簡単に死を隠して大宰府に征西府をおけたのか疑問なので、死亡説はなかろうと思っていました。
 佐々木氏も同じような理由からはっきり死亡説を否定していますが、面白いお話しを紹介してくれました。大日本史編纂のために、助さん角さんが諸国を旅した際、親王死亡説を調べるために千光寺も訪れたそうです。では助さんはなんと報告したというと、「証拠ひとつもなし」だったとのこと。なお、助さんは菊池にも来ており、正観寺を訪れています。
 また、千光寺にはその時亡くなった公家武将の墓がたくさんあり、死亡説の研究をした人もたくさんの公家武将の名前を列挙していますが、佐々木氏は親王に随行した人間を知ることができる唯一の資料である忽那氏の軍忠状に、12名しか名前がないと指摘し、それと矛盾するとのことです。その後増えたかもしれないじゃんと思ったりもしましたが…。

・懐良親王は、かね「よし」なのか、かね「なが」なのか
 結論から言うと、わからない。なので、ある意味両方正しいとのこと。
 佐々木氏は「なが」と呼んでいましたが、特に自信があるわけではなさそうでした。引き合いにされたのは『鎮西菊池軍記』の例のページです。ただ、『鎮西菊池軍記』は幕末に暁鐘成(あかつきのかねなり)が書いた読本で、内容には創作が多々含まれています。これを根拠にするのはどうかとも思ったのですが、紹介してくれた以下の話が興味深かったです。
 非公認の墓が山中にある、終焉の地といわれる大円寺。この大円寺が大雨だか台風かなんかで被害を受け、なにかが破損した際に出てきたなにか(記憶が曖昧)に、「金長天王」が水を飲んでうまいと言ったから山号を「玉水山」にしたと記されていたそうです。
 そこで思い出したのが、その大円寺で購入した「玉水山大円寺の由緒」という冊子です。それを読むと、昭和5年の暴風雨後に、襖の下張りから発見された由来書にそのような記述があったとされます。由来書を書いた和尚さんは1644~1660年頃の住持だとのことです。この冊子よくよくみると著者は佐々木氏でした。佐々木氏は懐良親王の墓所は大明神山説をとっています。
 さらに、八女に今でも続く五条家では、「かねなが」と読む家訓が伝わっているそうです。うーん、私は「かねよし」派でしたが、そう言われると心が揺らいでしまいます。

・懐良親王が明のクーデターに荷担!?
 懐良親王と菊池氏が倭寇と深く関わっていたことは堤克彦氏も指摘していますが、佐々木氏によると宮方の活動と、明国が把握している倭寇の被害が驚くほど一致しているとのこと。つまり、宮方が優勢なときはおとなしく、劣勢になると活発になっているとのことです。ここまではさもありなんという話です。
 ところが!そういうことで明国とも公式・非公式に交流があった親王は、左丞相・胡惟庸と、寧波の役人林賢のクーデター計画に乗っかり、武器を寧波に輸送したというのです。船が到着した時には胡惟庸は捕まっていましたが、林賢が関わっているとはバレていなかったため、林賢に渡して船は引き返したとか。
 この研究はあまり進んでいないとのことで、なんて壮大な計画を持っていたんだとびっくりし、これはレア情報ゲットと喜んだのですが、帰宅して両者の名前を検索すると、同じような話が出ていますね…。

 他にも面白い話はありましたが、あまり関係ありませんが黒木城の話を最後に。
・文字にして残すと大変
 黒木城と言えば、多々良浜から退却する菊池武敏が籠もった城であり、戦国期には立花・高橋の大友軍によって落城させられた城であります。そのため、城には「勤王史蹟黒木城趾」と「猫尾城戦没将士之霊」の二つの碑が建っています。よくある光景です。
 ですが!後者の碑にはとても複雑な背景があったのです。大友勢によって落城した大きな要因として、内通者の存在があり、誰が内通したかも名前が具体的に記録が残っているそうです(姓は教えてくれませんでした)。そして城近辺には、その後もその姓をの人々が暮らしており、非常に肩身の狭い思いをしていたそうです。その手打ちとして建てられたのが「猫尾城戦没将士之霊」であり、式典まで催されたそうです。
 それでも近隣の人々の厳しい目には絶えられず、明治に名字を名乗ることを正式に許されるようになったのを機に、多くの人々がその姓を捨てたそうですが、それでも今現在、城趾付近にその姓の人々が居住しているそうです。
 黒木城の発掘調査を佐々木氏がしていたとき、いつも食べ物を持ってきてくれるおじいさんがいたそうです。なんとその人は例の姓を名乗っており、「孫になんと説明したらいいものやら」と今でも悩んでいたとか。
 なお、同じく八女にある高牟礼城、そこに立つ石碑に「主君ニ友キ□サレル…」という一文があるらしいのですが、最初は全く意味がわからなかったとのこと。しかし、「友」は「反」に手を加えたもの、「□(判読不明)」は「誅」を削ったものだろうとのこと。字にして残すと後々までどのような遺恨を残すかわからない、というお話しでした。

 他にも色んな話があり、みっくんシンポジウムより非常にためになる講座でした。8/6(木屋行実軍忠状の日付)には小郡でも講演をされたらしく、聞けなかったのは不覚です。

阿蘇品保夫氏講演「南北朝時代の菊池一族」

熊本市で開催された阿蘇品保夫先生の講演を拝聴してきました。

 歴史上熊本が全国ニュースになったのは?西南戦争?でもたった数日でしょ?菊池一族はうん年間もインパクトを与えたんだよ。というお話しからスタートしました。
 内容は阿蘇品先生の著書『菊池一族』の内容とかなり重複していますが、小話も聞けて有意義な時間でした。

1.武時の博多合戦
 太平記と博多日記からしか武時の行動をうかがい知ることはできません。阿蘇品先生によると、武時は3つの可能性を考えていただろうとのこと。
a.少弐、大友も味方した場合、一気に探題をやっつける。
b.少弐、大友は動かないことを考え、「旗はあげなくていいから」と阿蘇氏を誘っておく。探題をやっつけたら阿蘇氏の功もきちんと報告するし、失敗の時は阿蘇氏のことは黙っておく。
c.少弐、大友が敵に回った場合、逃げずに討ち死にする。
 結果はCだった訳です。
 武時は逃げようと思えば逃げられたはずだが、なぜ逃げなかったのか。阿蘇品先生曰く子孫のために先駆けと討ち死にで武功を挙げるのが目的だったのだろうと。
 なお、袖ケ浦の別れはそんな暇ないし、作り話だろうとのこと。

2.武重と千本槍、菊池家憲
 槍自体は武重以前よりあっただろうが、実戦で槍により手柄を挙げたのは菊池勢が最初ではないか。また、菊池軍は楠木軍と同じく常に相手より少ない人数で戦っていたが、楠木と違うのは城塞戦やゲリラ戦ではなく、平野での合戦が多いのが特徴。その際、本陣対決で槍の集団利用が役に立ったのではないか。また、菊池氏が使用した槍は量産型だっただろうから、いわゆる千本槍がそんなに残っていないのだろうとのことでした。
 菊池家憲は例の第三条についての阿蘇品先生の解釈が聞けました。原文を掲載しないと何のことかわからないでしょうが、知っている人にわかればいいやと言うことで。阿蘇品先生は問題の「はた」はやはり「田畑」のことだと考えているそうです。開発による水利の変化や権利の問題で一族同士が争うことがないように、との見解でした。

3.武光の家督継承
 やはり母親の身分の関係もありすんなり継承したのではないという話。乙阿迦丸はやはり武光とは別人。武光の肥後守ゲット作戦が功を奏した。武光と大智の関係を示す資料は一つもなく、武澄の奔走があったというお話し。

4.武朝の復活
 今川了俊の「強敵だった菊池は使える」という評価のおかげで復活というお話し。『菊池一族』のまま。

 質問タイムに気になっていたことを二つ聞きました。
・武光の母の身分が問題とのことだが、読んだ本では武重、武士、武光3人の母は赤星有隆女になっているのだが?
→ 3人の母が実際に誰であるのかはわかっていない。赤星有隆女というのもおそらく推論だろう。
正福寺の人や(武士公シンパ)、武重公の子孫を称する人のサイトでは武光の評判が悪く、武士の代まで菊池一族の家紋は違い鷹の羽だったのを、武光が無理矢理並び鷹の羽にしたと主張している。蒙古襲来絵詞の並び鷹の羽でさえ、季長の勘違いと言っているが、そのような説があるのか。
→ そんなわけない。

 他にも聞きたいことがあったのですが、すっきりしました。

大刀洗と太刀洗

 昨日4月21日、福岡FBS放送の「ナイトシャッフル」で、大刀洗町の町名の由来について紹介されていました。
 「南北朝時代の将軍菊池武光が筑後川の戦いに勝利した後、川で太刀を洗ったことから…」と説明されていました。よって、大刀洗ではなく太刀洗の予定だったのだが…という内容でした。
 経緯はその通りなのですが、問題は「将軍」菊池武光という表現です。テレビ画面にもテロップが出ていました。

 大刀洗町には菊池小学校がありますので、さすがに菊「地」という初歩的なミスはありませんでした。

 しかし、いったいいつ、誰によって、何の将軍にみっくんが任命されたのでしょうかね。それも征西将軍宮懐良親王がいらっしゃるのに。
 念のためFBSに問い合わせのメール(?)を送りましたが、返事は期待していません。

 なお、放送終了後、「菊池玲瓏」への「筑後川の戦い」検索での来訪者は6名でした。

肥前家と菊池惣領家

 肥前家は第15代菊池武光公の非常に良くできたお兄様・菊池武澄公を祖とします。
 北方謙三の『武王の門』では弟設定されていますが、一般的に武澄公は六郎、武光公は十郎とされ、武澄公を弟とする系図は見たことがありません。弟設定しなければ武光公がかすんでしまうほどの戦歴を残した御仁です。
 武澄公については改めてご紹介しますが、第12代菊池武時公のご活躍の恩賞として、武澄公に肥前守が与えられたとされます。

 そもそも菊池家と肥前との関係は以前から深く、第5代経直公は肥前杵島郡長島庄の荘官職を持っていました。武澄公に始まる肥前家は、肥後北部の玉名庄を中心に島原半島にも所領を有していました。
 武澄公の子・菊池武安公は武光・武政・武朝の三代に仕え、千布・蜷打の戦いで戦死しました。武安公の子・菊池武照公は「鬼肥前」と呼ばれ(たかもしれない)、今川勢を重要拠点の台城に迎えて戦うなど、惣領家を支えています。

 その後、一度武澄公の嫡流は途絶えますが、第19代菊池持朝公の子・菊池為安公(=第20代菊池為邦公の弟)が肥前家を継ぎます。
 為邦公の時代、筑後守護職を巡る菊池vs大友の争いが起こり、為安公は高良山で大友勢と戦い戦死、第22代菊池能運公の時代の家中争いでは為安公の子・菊池重安公は能運公方として玉祥寺原に戦い戦死するなど、惣領家を支え続けたのが肥前家でした。
 そして子がいなかった能運公が死に際して後継者に指名したのが重安公の子で再従兄弟にあたる、第23代菊池政隆(政朝)公だったのです。

 さて、一族の結束が乱れ家中争いが相次いで起こり、それに一時破れた第22代能運公、第23代政隆公、第24代菊池武包公と三代続けて肥前家領の島原に逃れて再起を図っています。
 平家、源義経、足利尊氏、その他たくさんの人物が「九州に逃げれば何とかなる」と思った(かもしれない)ように、菊池惣領家も「島原に逃げれば何とかなる」と思ったのでしょう。成功したのは能運公だけでしたが…。

 ということで、次回から肥前の菊池一族シリーズ開始です。

文献 阿蘇品保夫『菊池一族』 菊池市『菊池市史』

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