熊本市で開催された阿蘇品保夫先生の講演を拝聴してきました。
歴史上熊本が全国ニュースになったのは?西南戦争?でもたった数日でしょ?菊池一族はうん年間もインパクトを与えたんだよ。というお話しからスタートしました。
内容は阿蘇品先生の著書『菊池一族』の内容とかなり重複していますが、小話も聞けて有意義な時間でした。
1.武時の博多合戦
太平記と博多日記からしか武時の行動をうかがい知ることはできません。阿蘇品先生によると、武時は3つの可能性を考えていただろうとのこと。
a.少弐、大友も味方した場合、一気に探題をやっつける。
b.少弐、大友は動かないことを考え、「旗はあげなくていいから」と阿蘇氏を誘っておく。探題をやっつけたら阿蘇氏の功もきちんと報告するし、失敗の時は阿蘇氏のことは黙っておく。
c.少弐、大友が敵に回った場合、逃げずに討ち死にする。
結果はCだった訳です。
武時は逃げようと思えば逃げられたはずだが、なぜ逃げなかったのか。阿蘇品先生曰く子孫のために先駆けと討ち死にで武功を挙げるのが目的だったのだろうと。
なお、袖ケ浦の別れはそんな暇ないし、作り話だろうとのこと。
2.武重と千本槍、菊池家憲
槍自体は武重以前よりあっただろうが、実戦で槍により手柄を挙げたのは菊池勢が最初ではないか。また、菊池軍は楠木軍と同じく常に相手より少ない人数で戦っていたが、楠木と違うのは城塞戦やゲリラ戦ではなく、平野での合戦が多いのが特徴。その際、本陣対決で槍の集団利用が役に立ったのではないか。また、菊池氏が使用した槍は量産型だっただろうから、いわゆる千本槍がそんなに残っていないのだろうとのことでした。
菊池家憲は例の第三条についての阿蘇品先生の解釈が聞けました。原文を掲載しないと何のことかわからないでしょうが、知っている人にわかればいいやと言うことで。阿蘇品先生は問題の「はた」はやはり「田畑」のことだと考えているそうです。開発による水利の変化や権利の問題で一族同士が争うことがないように、との見解でした。
3.武光の家督継承
やはり母親の身分の関係もありすんなり継承したのではないという話。乙阿迦丸はやはり武光とは別人。武光の肥後守ゲット作戦が功を奏した。武光と大智の関係を示す資料は一つもなく、武澄の奔走があったというお話し。
4.武朝の復活
今川了俊の「強敵だった菊池は使える」という評価のおかげで復活というお話し。『菊池一族』のまま。
質問タイムに気になっていたことを二つ聞きました。
・武光の母の身分が問題とのことだが、読んだ本では武重、武士、武光3人の母は赤星有隆女になっているのだが?
→ 3人の母が実際に誰であるのかはわかっていない。赤星有隆女というのもおそらく推論だろう。
・
正福寺の人や(武士公シンパ)、武重公の子孫を称する人のサイトでは武光の評判が悪く、武士の代まで菊池一族の家紋は違い鷹の羽だったのを、武光が無理矢理並び鷹の羽にしたと主張している。蒙古襲来絵詞の並び鷹の羽でさえ、季長の勘違いと言っているが、そのような説があるのか。
→
そんなわけない。 他にも聞きたいことがあったのですが、すっきりしました。
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