前原茂雄さん主催の「蒙古襲来関連史跡を歩く」イベントに参加してきました。主に蒙古襲来絵詞を参考にした
文永の役の元軍撤退ルートをたどるイベントです。日本国民の一般常識でしょうが、念のため説明すると文永の役とは菊池武房公が大活躍した戦いです。
集合場所は福岡市立中央市民センター(かつては福岡城の堀)。そこからまず目指すは「赤坂の陣(あかさかのちん)」です。「あかさか」と言えば、武房公が元軍を撃破した場所です。いきなりメインイベント!クライマックス!
たけふさにけうとあかさかのちんをかけおとされて、ふたてになりて、おほせいはすそはらにむきてひく メインイベント会場に向かう途中で前原さんが足を止めたのがこちらの前。
一見、何の変哲もない民家ですが、かつての下級武家屋敷の面影をのこしているとのことです。特徴は細い竹による生け垣。チンチク塀と呼ぶらしいです。
立派な塀を作る財力がなかったのもあるのでしょうが、この細い竹は鉄砲の筒を掃除するなどに使用したものだとのことです(他にも用途を聞いた気がするのですが忘れてしまいました)。これが残っているのは福岡でも2カ所だけとのこと。
さて、次はいきなりのメインイベント「あかさかのちん」。福岡に限らず全国に赤坂という地名はありますが、それは赤土に覆われた坂を意味することがほとんどであるとのこと。では現在の赤坂で赤土に覆われた坂がどこにあったかというと、現南公園と現福岡城に続く坂だったとのことです。
現在は南公園と福岡城はつながっていませんが、それは福岡城築城の際に尾根をぶったぎったからで、かつては尾根続きだったのです。その尾根で博多を目指す元軍が陣をしいたと推定される場所が…
けやき通りのこのあたりです。左右を見ると…
一方には福岡城天守台方面が見え
一方では南公園へ連なる坂が見えます。
もちろん、ピンポイントで場所が特定されているわけではないのですが、武房公はこのあたりで戦ったのでしょう。武房公が吐いた空気を700~800年経て今吸っているわけです。
メインイベントは終わりましたが、イベントは続き元軍が撤退した西へ向かいます。
その途中で立ち寄ったのが、福岡では知らぬ人はいないはずの
菊池霊社です。
ご覧の通り、大人にもお子様にも大人気。菊池霊社
のうさんくささについては
過去のブログをご参照ください。
その後は六本松を経由して別府橋(「べふ」と読みます)へ。
ご覧の通り水が流れていますが、これは海水が流れ込んでいるとのことで、潮が引いている時間帯はちょろちょろとした流れだとのことです。何度も見た川ですが、全く気にとめたことがありませんでした。
なぜこの川をわざわざ紹介したのかというと、かつてはこの一帯は海に近く、干潟のようになっていたことを示しているのです。蒙古襲来絵詞に
つかハらよりとりかひのしほひかたを、おほせいになりあハむとひくをおかくるに、むまひかたにはせたハして、そのかたきをのハす。 と、干潟で足場が悪いという記述が散見しています。土地勘の悪い元軍はこのあたりを通って撤退し、追いかける季長もこのあたりを通ったことでしょう。
なお、赤坂から西へ逃げる元軍は2手にわかれるのですが、赤坂から西に向かって目に入る小高い丘陵は2つだけです。小勢が向かった「つかハら」と大勢が向かった「すそはら」です。とりあえずの逃げ場として選んだのでしょう。
なお、「つかハら」が古墳でもあるこちら。
たしかに、周囲で小高い場所はここぐらいしかありません。
次に向かったのがこの謎の神社です。
地図には載っていない、史跡としても指定されていない小さな神社です。
祭神は村上隼人正信綱という人物ですが、由来によると後の弘安の役で戦死した人物となっていますが、彼の名前は記録を探してもどこにも見つけることができないそうです。
家名を高めるために戦歴を詐称することはよくあることなのでしょうが、それを目的とした「村上氏」が誰なのかもわかっていませんし、名乗り出ても来ていません。
しかも前原さんによると、この地は確かに実際に戦いが行われた可能性が高い場所であり(この神社自体は少し移築されていますが)、民間伝承として残り続けていることから、もしかしたら本当に過去にそういう人物がいたのかもしれない興味深い事例とのことでした。
続いて塩屋橋へ。
遠くに見えるのが塩屋橋です。
この川の両脇は非常に低く、ここもまたかつてはすぐに干潟になるような場所だったとされます。塩屋と言えば、「しほやのまつ」の前で跳ねた馬にまたがる季長の絵が有名です。
けうとすそハらより、とりかいかたのしほやのまつのもとにむけあハせてかせんす。 もちろん、今は松を見つけることはできませんが、もしかしたら季長が炸裂するてつはうに苦戦していたのはこのあたりだったのかもしれません。
最後は、「すそはら」こと現祖原公園へ。ここは武房に敗れた元軍の大勢が逃げ込んだ山ですね。
最近手が加えられたようで、ご覧の通り見晴らしが良くなっています(かつての姿は
こちら)。
東の方をみると、たしかに前原さんのご説明の通り、赤坂からこちらまではずっと平地で、軍勢をおけるような丘陵は「つかハら」とこの「すそはら」ぐらいですね。長々と絵詞では説明されてはいますが、簡単に歩ける距離、馬にしたらものの10分の距離の戦いを描いていたわけです。
それ以外の戦いがどのように行われたのかはわかっていませんが、日本軍は水城まで撤退しているわけですから、要は武房公以外はボロ負けだったのでしょう。初めて前原さんからお聞きしたのですが、水城周辺からは元軍の兜がでてきたことがあるとのことですから、やはり水城まで攻め寄せられたのでしょう(武房公が獲ってきた首についていた兜をポイッと捨てたのかもしれませんけどね)。
その後は百道と藤崎の石築地跡をちょろっと見て解散しました。前原さんありがとうございました。
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