680年前の今日、元弘3年3月13日は博多合戦が行われた日、すなわち第12代菊池武時公のご命日です。
博多合戦については、若干内容が異なるものの『太平記』と『博多日記』が伝えています。
後醍醐天皇の打倒北条の綸旨を受けた菊池武時公は、少弐・大友にも使いを送り、自らは阿蘇神社に参詣し鏑矢に添えて歌をを奉納したとされます。
「武夫の上矢のかぶら一筋に思ふ心は神や知るらむ」
後醍醐天皇が隠岐を脱出するなど不穏な雰囲気を感じた鎮西探題北条英時は、九州の諸族を博多に招集します(『博多日記』)。身辺警護と探りを入れるのを兼ねてのようです。
武時公は3月11日に博多に到着し、息の浜に宿営します。現在マリンメッセがあるのが「沖浜」ですが、その近辺かもしれませんね。
そして翌12日、探題館に出仕したところ、下広田新左衛門尉に「遅刻だよ」と言われて激しい口論になったそうです。武時公は「I will be back」と言い放って宿営地に戻り、その夜酒宴を開きます。この時既に探題襲撃を決めていたとも言われます。一説には、肥前の尊良親王の蜂起が14日であったことから、探題の対応から1日計画を早めたとも。
さて、13日の寅の刻、武時公は所々に火を放ち探題館を目指します。少弐・大友にも使いを送りますが、少弐には使者を斬られ、大友から斬られそうになった使者が帰ってきて、武時公が放った有名なセリフが「日本一の不当人共!」です。
探題館の場所は確定されてはいないようですが、櫛田神社東方が有力なようです。
この辺?
『博多日記』では「此は御所か」と言って誤って櫛田神社へ入ったとありますが、前日に探題館に行っているのに間違うのがおかしいと、平泉澄と西川虎次郎陸軍中将の両氏は言います。西川中将は探題館を包囲するため、作戦上隣接する櫛田神社に入ったのだろうと考えています。
『太平記』でも櫛田神社は登場します。
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櫛田神社を乗馬して過ぎようとしたときに、神様が「凶だよ!やめとき!」とアドバイスしようとした(or乗馬を咎めた)のか、武時公の馬が動かなくなってしまった。武時公は立腹して「いくら神様と言っても止めるとは何事だ!それならこれを食らえ!」と神殿の扉に向かって「矢一つまいらせん」と言いながら二発矢を放った。すると馬は動き出し、武時公は「ふふん」とあざ笑って通り過ぎた。後で見ると大蛇が矢に刺さっていた。
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西川中将は「武時がそんなこと無礼なことするはずがない」と言っていますが、平泉氏はこれをもっていかなる手段を用いても探題を討つべしと部下に決意を促したと解釈しています。
戦いは『博多日記』は武時の義弟、菊池覚勝(寂正)が御所に討ち入って中庭まで攻め込んだとし、『太平記』でも英時が自害をしようとしたとするなど、菊池勢優勢で進んだようですが、探題方の援軍として少弐・大友がやってきたため形勢が逆転したようです。
そして武時公は袖ヶ浦まで退いて、武重公を肥後へ帰らせ後を託します。いわゆる「袖ヶ浦の別れ」ですね。ただ、袖ヶ浦の場所はよくわかっていません。西川中将は肥後へ帰らせることを考えると、冷泉津ではないかとしています。
武時公が武重公に託した辞世の句は、この
ブログでも紹介したとおりです。
武時公と共に戦死したのは子の三郎頼隆、隆寂(経重か)、義弟覚勝(寂正)。先ほどご紹介したとおり、覚勝は70人程で中庭まで討ち入り全滅したとされます。
武時・頼隆・覚勝の3人の首は犬射馬場にさらされたとのことですが、それが4,5日後の事でしかも夜は隠したということから、西川中将は実は偽首ではないかと疑っています。
武時公のお墓についてはこれもまた
ブログで紹介したとおり、七隈の
菊池神社と六本松の
菊池霊社ということになっています。
これから70日後、今度はその少弐・大友らによって探題北条英時は自害します。「哀れなるかな」とは『太平記』の弁。
次は山鹿にある武時公の供養塔について。
【文献】
西川虎次郎『博多と菊池寂阿公』
平泉澄『菊池勤王史』