菊池武澄公は所領である玉名の「石貫の寺」に大智を招こうと働きかけ、武澄公没後、それが実現する形で大智は
聖護寺を出て「石貫の寺」に移ることになります。
なぜ武澄公は必死に「石貫の寺」に移るよう働きかけたのか、この点は阿蘇品保夫氏の『菊池一族』において詳しく説明されています。
阿蘇品氏によると、第13代菊池武重公に招かれて以来、大智は菊池一族の精神的支柱として、また一族の活動を正当化する上で重要な存在でした。しかし、第15代菊池武光公は先代(第14代菊池武士公)の譲り状を得ることもなく、また大智の意向も関係なく、直接朝廷に掛け合って肥後守ゲットして上位に立つという荒技と、奪われていた本城(菊之城)奪還という合わせ一本で惣領の地位を得たのでした。
その上、武光公は懐良親王と征西府という錦の御旗を掲げたので、大智という柱や旗はもはや不要になってしまったのです。
一族の不平不満を抑え、大智に対しても誠意を尽くし続けたのが武澄公だったとされます。武澄公は副司令官としてのみならず、色んなところで汗をかいていたわけですね。
そんな武澄公は残念ながら早世するわけですが、死期を悟った武澄公は「このまま武光のお膝元である菊池に大智をほったらかしにしておくのはまずい…」と自分の所領である玉名の「石貫の寺」に誘ったわけです。
そんなこともあり、大智と武澄公の関係はかなり深かったようで、慌てて薬を送ったり、武澄公の死後、大智は告祭文を残したりしています。他の誰に対しても行っていません。内容も武人としての武澄公をべた褒めし、太平の世が武澄公のおかげで築かれようとしているのに、その武澄公がそれを見ることができないとはと嘆いています。
さて、ここまで「石貫の寺」と言い続けてきたのは(武澄公も書状でそのように表現していますが)、元々ここには「太平寺」というお寺があったようなのです。その境内に大智を招いて
広福寺は建てられ、やがて太平寺も広福寺の一部となったようです(その辺りの過程は阿蘇品氏の文献が詳しいです)。
ということで広福寺のこの建物の中に…
大智の像があります。
その両脇には歴代当主の位牌が並んでいますが、24代までしかありません。
そしてその24代は武包公ですから、宇土為光、菊池武経、菊池義武は当主として認めていないということでしょう。
さて大智はこの後島原で死去することになるのですが、遺骨は四箇所に分葬されたそうです。そのうち一つがここ広福寺のようですが(内一つは
すでにご紹介した聖護寺)、どれなんでしょうかね。何も看板がありませんでしたが、もしやこれ?
いずれまた行って確認してきます。
たぶん次は大智がその後島原で開いたお寺について。
【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』
『菊池市史』
【紫陽山広福寺】
玉名市石貫 Pあり
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