前回、玉名の高瀬氏関連史跡を紹介すると言いながら、なぜ
湊川神社かと思われるかもしれませんが、決して気が変わったわけではありません。流れ上、脱線してしまうかもしれませんが…。
高瀬津は菊池川河川交通と有明海内海交通の結節点となる港でした。朝鮮や中国との交易拠点でもあり、後に高瀬津の権益を巡って、一族内でもめ事が起こっています。
高瀬津をいつ頃から菊池一族が支配していたのか、正確にはよくわかりませんが、建武二年の菊池武吉寄進状が初見と言われています。
親父の貢献から得た恩賞をきっかけに、勢力を拡大したと考えられています。
ここで登場する菊池武吉とはどういう人物だったのか。菊池七郎と呼ばれるということは、推定
武重公の弟です。しかし、肥後でどのような活動をしていたのかは定かではなく、彼の足跡として明確に残っているのは、湊川の戦いぐらいのようです。
湊川の戦いの詳細は紹介しませんが、武重公が九州を留守にしていた時に筑前で
多々良浜の戦いが起き、勝利した足利尊氏が九州の軍勢を引き連れて戻ってきたため生じた戦いです。武吉公は兄・武重公と上洛し、新田勢と行動を共にしていました。楠木勢のことを心配した武重公が、武吉公を楠木正成の元に派遣したところ、
運悪く皆そろって自害する事になったそうです。皆を自害させて一人だけ帰るわけにもいくまいと、武吉公は律儀に一緒に自害しました。
その自害した場所が、湊川神社の一角にあります。
よく読み取れませんが、きっと「史跡 菊池武吉戦没地」とあるような気がします。え?モザイク?いや気のせいです。
神社の方に声をかければ、案内してもらえます。自刃したのは「あのあたり」と指さしされたのがこちらです。
そんなこともあり、湊川神社には武吉公が祀られ、墓もあります。
楠木正成の墓でもありますが、細かいことは良いでしょう。
武重公が上洛して何をしていたのか、気になるところだと思いますので、武重公の足跡を次回はたどってみることにします。やはり脱線しました。
あ、社殿はこちらです。