先日、金峰山に登ってきたので、そのことについて書こうかと思ったのですが、菊池五山をまだ3つしか紹介していないのが気持ち悪いので先に残りの2つについて。
諸説あるが、936年、輪足(亘)村に天台宗の証慶法印が開いたと『菊池風土記』にある。それによると、色々あって地面を掘ってみると霊らしきものが出てきて「ここに寺を建てたら永久に守ってあげるよ!」と言ったから建てたようだ。
しかし1047年、賊徒(だれ?)によって焼失してしまったのを、1072年に菊池則隆公により再興され、9代菊池隆泰公の子が覚仏と称して庵を開いたともされる。
その後また衰微したのを再興して菊池五山に加えたのがみっくんこと菊池武光公。
このお寺には重要な人物の墓が複数あり、まずはなんと言っても武時公の義弟にあたるという菊池(赤星)寂正公。
なんとこのお方、正三位を授けられています。みっくんやしげちー達が従三位ですから、その上を行くわけです。
とっきー(従一位)と一緒に探題館討ち入りに行って戦死したのが評価されたのでしょう。しかしそれなら頼隆公は…。
さて気を取り直してその近くにあるのがこちら。
こちらは菊池武村公。しげちーの大叔父にあたり、しげちーと一緒に上京し、箱根やらで貴重な戦力として足利勢と戦っています。大渡の戦いで戦死しました。
また、少し離れた場所にはしげちーの嫁さんとその次女のものとされるお墓もあります。
菊池本城(深川城)落城の際に、自害したとか。つまり、菊池武士公の時代ですから、すでに未亡人でいらっしゃったわけです。
他に一族では城為重という人物の墓もあります。現地の看板では為「量」となっていますが、『菊池氏史要略』の系図をみるに、為重で間違いないでしょう。
何をされた人なのかはよく存じ上げませんが、城家の当主だったのでしょう。
さてこの東福寺、かつては広大な敷地を誇ったようで、付近にはその名残があります。次回からは東福寺関係の史跡について。
【文献】
『菊池氏史要略』
『菊池風土記』
堤克彦『郷土史譚100話 菊池』
【輪足山東福寺】
菊池市亘 Pは南側のスペースに駐められなくもないが、だいたい誰か(近隣住民?)が先に駐めているため、菊池グランドホテルの前のスペースに駐めて歩くのが無難かと。
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