前回ご紹介した
袈裟尾山北福寺、後に江月山玉祥寺の末寺となったのですが、今回はその玉祥寺についてです。
玉祥寺は享徳元年、第20代菊池為邦公によって建立されました。開山は竺庵仲欠によります。『菊池風土記』によると、ここには為邦公の兜の前立てである、狐の尻尾があったとか。
山門をくぐって少しだけ坂をあがるとこちらに出ます。
傍らには菊池万句の碑が建ちます。
菊池万句は第21代菊池重朝公によって開催されたもので、20カ所99人が参加しています。発句が重朝公の「月や知る十代の松の千々の秋」です。一カ所につき500句も詠むとは、最後の方は頭がぐちゃぐちゃになっていたことでしょう。中には嫌々ながら参加させられた人もいたんじゃないか。
戻って山門の西側には、為邦・重朝親子の墓があります。
左が重朝公、右が為邦公です。為邦公のお墓は碧巌寺にもありますが、それはまたいずれご紹介ということで。
第19代菊池持朝公の姉や赤星武統の墓も玉祥寺にかつてはあったようですが、今はどこにあるのだろう…。ちょい南にある五輪塔が怪しくて仕方がないのだが…。
次回は玉祥寺の守護神として建てられた(かもしれない)神社について。
【文献】
『菊池風土記』
『菊池氏史要略』
阿蘇品保夫『菊池一族』
【江月山玉祥寺】
菊池市玉祥寺 Pなしもスペースあり。北にあるのかもね。
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