肥前家は第15代菊池武光公の非常に良くできたお兄様・菊池武澄公を祖とします。
北方謙三の『武王の門』では弟設定されていますが、一般的に武澄公は六郎、武光公は十郎とされ、武澄公を弟とする系図は見たことがありません。弟設定しなければ武光公がかすんでしまうほどの戦歴を残した御仁です。
武澄公については改めてご紹介しますが、第12代菊池武時公のご活躍の恩賞として、武澄公に肥前守が与えられたとされます。
そもそも菊池家と肥前との関係は以前から深く、第5代経直公は肥前杵島郡長島庄の荘官職を持っていました。武澄公に始まる肥前家は、肥後北部の玉名庄を中心に島原半島にも所領を有していました。
武澄公の子・菊池武安公は武光・武政・武朝の三代に仕え、
千布・蜷打の戦いで戦死しました。武安公の子・菊池武照公は「鬼肥前」と呼ばれ(たかもしれない)、今川勢を重要拠点の
台城に迎えて戦うなど、惣領家を支えています。
その後、一度武澄公の嫡流は途絶えますが、第19代菊池持朝公の子・菊池為安公(=第20代菊池為邦公の弟)が肥前家を継ぎます。
為邦公の時代、筑後守護職を巡る菊池vs大友の争いが起こり、為安公は高良山で大友勢と戦い戦死、第22代菊池能運公の時代の家中争いでは為安公の子・菊池重安公は能運公方として
玉祥寺原に戦い戦死するなど、惣領家を支え続けたのが肥前家でした。
そして子がいなかった能運公が死に際して後継者に指名したのが重安公の子で再従兄弟にあたる、第23代菊池政隆(政朝)公だったのです。
さて、一族の結束が乱れ家中争いが相次いで起こり、それに一時破れた第22代能運公、第23代政隆公、第24代菊池武包公と三代続けて肥前家領の島原に逃れて再起を図っています。
平家、源義経、足利尊氏、その他たくさんの人物が「九州に逃げれば何とかなる」と思った(かもしれない)ように、菊池惣領家も「島原に逃げれば何とかなる」と思ったのでしょう。成功したのは能運公だけでしたが…。
ということで、次回から肥前の菊池一族シリーズ開始です。
文献 阿蘇品保夫『菊池一族』 菊池市『菊池市史』
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