菊池武澄公には武安という子がいました。
武澄公没後は武安公が肥前家と肥前守を継ぎ、第15代菊池武光公から第17代菊池武朝公の三代を支えました。
さて
大原合戦に敗れた少弐頼尚は肥前で再起を図ろうとしましたが、それを阻止すべく活動したのが武安公でした。
武安公は未だに詳細不明の仁比山城など神埼の諸城を拠点にしていますが、
姉川城は自ら築城しています。まずは現地説明版の航空写真から(西の公園内に新しく建てられています)。
残っている小字から考えると、東西は写真左端の川~右端の川までが城域だったようです。
写真の中央右の一番広い区域が本丸とのことです。最初は下調べせずに訪問したので、中央部が本丸かと思っていましたが、ここは妙法寺という寺跡のようです。
神埼一帯はご覧の通りクリークが張り巡らされており、この城に限らずクリークを活用した環濠集落的な造りになっています。
こちらが本丸南側で、水田と化しています。
そしてこちらが妙法寺跡南側です。妙法寺は後醍醐天皇の勅願所だった所で、姉川氏の菩提寺であったようです。
ご覧の通り、クリークに囲まれた島々をつなぐ道は、非常に細いのが見て取れるのではないでしょうか。
ところで武安公が率いた兵は約3000ということですが、ここにすべて収容できたのでしょうかね。おそらく他の城にも分散させたのでしょうか。
武安公は少弐方の高木、龍造寺、千葉らを挑発し、まず高木家直を撃破します。さらに援軍として派遣された宗経茂や龍造寺家経らと戦い、これを破り肥前を制圧したとのことです。さすが武澄公のお子様です。後顧の憂いを断った征西府は、翌年念願の大宰府入りを果たすことになります。
さて、後に姉川城を拠点とした姉川氏は、武安公の末裔だとする説が有力なようですが、実際の所はどうなのでしょうね。姉川友安、惟安、信安と「安」づくしということはやはり?
ただし、武安公がこの肥前制圧戦で少弐頼尚に敗れ、仁比山城から姉川城に逃れ姉川氏を名乗ったという説は、その後の武安公ご自身や征西府の動きから考えても誤りでしょう。武安公はその後も菊池武安として玉名や島原を所領とし、活動した書状や記録が残っています。
次は武安公が兵を入れたお城をついでにもう一つ。
文献 荒木栄司『九州太平記』 天本孝志『九州南北朝戦乱』 『日本城郭大系17』 阿蘇品保夫『菊池一族』
【肥前姉川城】
神埼市神埼町姉川 Pなし。西側の公園前のスペースに駐車か
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