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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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古池城

 南福寺の近くにあるのが菊池十八外城の一つ、古池城です。城名の由来はよくわかりませんが、南福寺横の池が関係しているのでしょうか。

 城郭大系には比高45m、『菊池市の文化財』には比高25mとあります。

 うーん、25or45、どっちだろう。登り口から平坦部までの階段は108段らしいが…(自分では数えていない)。

 菊池川が流れる天然の要害(『菊池市の文化財』)…と言っても、肝心の菊池川は本城のある北側で、南からの防御は大丈夫だったのかと余計な心配。南側はずっと小さな丘陵が連なっているから、比高差で防御していたんでしょうか。梨木坂、万太良坂で防御と『日本城郭全集』にはあるがよくわからない。

 丘陵頂上には城趾碑がありますが、直径10m程度の高台に過ぎず、城としては小規模で、遺構も特にみあたりません。


 城主は一族の出田氏が代々務め、後には城親冬が在城したとか。親冬は親大友となり隈本城に入っているので、その後は親冬の弟・政冬が入ったかもしれません。なぜなら、政冬は出田重綱以降、出田氏を継いでいますので。

 菊池五山、十八外城も引き続き紹介していきますが、次回は例によって脱線して出田氏が築城した他のお城について。

【文献】
『城郭大系』
『日本城郭全集』
『菊池市の文化財』

【古池城】
菊池氏出田(上出田) Pなし

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手洗山南福寺

 またも久々の更新になってしまいました。

 菊池五山の紹介がまだ2つだけで気持ち悪いですので、残りをご紹介していきます。今回取りあげるのは手洗水山南福寺です。

 文献によっては手「水」山となっています。

 近くに清泉があるため手水山と名付けられたそうで、たしかに地元の人が釣りをしている池があります。近くには菊池十八外城の古池城があるのですが、この由来になっているかどうかは定かではありません。

 南福寺はもとは天台宗だったものを、菊池五山制定に当たり武光公が浄土宗になったようです。付近に散在する五輪塔は、古池城主の出田氏関係、もしくは後に城主を務めた城氏のものと考えられます。

 なお、『菊池の歴史遊歩』に「菊池の武士の伝説につながる『こまどめの桜』」があるとありますが、これは藩主細川氏が巡視の際に馬をつなぎとめたから、ということらしいです。なんだ、菊池氏と関係ないのか。


 次は近くにある古池城について。

【文献】
『菊池の歴史遊歩』
『菊池市の文化財』

【手水山南福寺】
菊池市出田(上出田)

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阿蘇品保夫氏講演「南北朝時代の菊池一族」

熊本市で開催された阿蘇品保夫先生の講演を拝聴してきました。

 歴史上熊本が全国ニュースになったのは?西南戦争?でもたった数日でしょ?菊池一族はうん年間もインパクトを与えたんだよ。というお話しからスタートしました。
 内容は阿蘇品先生の著書『菊池一族』の内容とかなり重複していますが、小話も聞けて有意義な時間でした。

1.武時の博多合戦
 太平記と博多日記からしか武時の行動をうかがい知ることはできません。阿蘇品先生によると、武時は3つの可能性を考えていただろうとのこと。
a.少弐、大友も味方した場合、一気に探題をやっつける。
b.少弐、大友は動かないことを考え、「旗はあげなくていいから」と阿蘇氏を誘っておく。探題をやっつけたら阿蘇氏の功もきちんと報告するし、失敗の時は阿蘇氏のことは黙っておく。
c.少弐、大友が敵に回った場合、逃げずに討ち死にする。
 結果はCだった訳です。
 武時は逃げようと思えば逃げられたはずだが、なぜ逃げなかったのか。阿蘇品先生曰く子孫のために先駆けと討ち死にで武功を挙げるのが目的だったのだろうと。
 なお、袖ケ浦の別れはそんな暇ないし、作り話だろうとのこと。

2.武重と千本槍、菊池家憲
 槍自体は武重以前よりあっただろうが、実戦で槍により手柄を挙げたのは菊池勢が最初ではないか。また、菊池軍は楠木軍と同じく常に相手より少ない人数で戦っていたが、楠木と違うのは城塞戦やゲリラ戦ではなく、平野での合戦が多いのが特徴。その際、本陣対決で槍の集団利用が役に立ったのではないか。また、菊池氏が使用した槍は量産型だっただろうから、いわゆる千本槍がそんなに残っていないのだろうとのことでした。
 菊池家憲は例の第三条についての阿蘇品先生の解釈が聞けました。原文を掲載しないと何のことかわからないでしょうが、知っている人にわかればいいやと言うことで。阿蘇品先生は問題の「はた」はやはり「田畑」のことだと考えているそうです。開発による水利の変化や権利の問題で一族同士が争うことがないように、との見解でした。

3.武光の家督継承
 やはり母親の身分の関係もありすんなり継承したのではないという話。乙阿迦丸はやはり武光とは別人。武光の肥後守ゲット作戦が功を奏した。武光と大智の関係を示す資料は一つもなく、武澄の奔走があったというお話し。

4.武朝の復活
 今川了俊の「強敵だった菊池は使える」という評価のおかげで復活というお話し。『菊池一族』のまま。

 質問タイムに気になっていたことを二つ聞きました。
・武光の母の身分が問題とのことだが、読んだ本では武重、武士、武光3人の母は赤星有隆女になっているのだが?
→ 3人の母が実際に誰であるのかはわかっていない。赤星有隆女というのもおそらく推論だろう。
正福寺の人や(武士公シンパ)、武重公の子孫を称する人のサイトでは武光の評判が悪く、武士の代まで菊池一族の家紋は違い鷹の羽だったのを、武光が無理矢理並び鷹の羽にしたと主張している。蒙古襲来絵詞の並び鷹の羽でさえ、季長の勘違いと言っているが、そのような説があるのか。
→ そんなわけない。

 他にも聞きたいことがあったのですが、すっきりしました。

文永の役の元軍撤退(季長進軍)ルートをたどる

前原茂雄さん主催の「蒙古襲来関連史跡を歩く」イベントに参加してきました。主に蒙古襲来絵詞を参考にした文永の役の元軍撤退ルートをたどるイベントです。日本国民の一般常識でしょうが、念のため説明すると文永の役とは菊池武房公が大活躍した戦いです。

 集合場所は福岡市立中央市民センター(かつては福岡城の堀)。そこからまず目指すは「赤坂の陣(あかさかのちん)」です。「あかさか」と言えば、武房公が元軍を撃破した場所です。いきなりメインイベント!クライマックス!

 たけふさにけうとあかさかのちんをかけおとされて、ふたてになりて、おほせいはすそはらにむきてひく

 メインイベント会場に向かう途中で前原さんが足を止めたのがこちらの前。

 一見、何の変哲もない民家ですが、かつての下級武家屋敷の面影をのこしているとのことです。特徴は細い竹による生け垣。チンチク塀と呼ぶらしいです。
 立派な塀を作る財力がなかったのもあるのでしょうが、この細い竹は鉄砲の筒を掃除するなどに使用したものだとのことです(他にも用途を聞いた気がするのですが忘れてしまいました)。これが残っているのは福岡でも2カ所だけとのこと。

 さて、次はいきなりのメインイベント「あかさかのちん」。福岡に限らず全国に赤坂という地名はありますが、それは赤土に覆われた坂を意味することがほとんどであるとのこと。では現在の赤坂で赤土に覆われた坂がどこにあったかというと、現南公園と現福岡城に続く坂だったとのことです。
 現在は南公園と福岡城はつながっていませんが、それは福岡城築城の際に尾根をぶったぎったからで、かつては尾根続きだったのです。その尾根で博多を目指す元軍が陣をしいたと推定される場所が…

 けやき通りのこのあたりです。左右を見ると…
 一方には福岡城天守台方面が見え

 一方では南公園へ連なる坂が見えます。

 もちろん、ピンポイントで場所が特定されているわけではないのですが、武房公はこのあたりで戦ったのでしょう。武房公が吐いた空気を700~800年経て今吸っているわけです。

 メインイベントは終わりましたが、イベントは続き元軍が撤退した西へ向かいます。

 その途中で立ち寄ったのが、福岡では知らぬ人はいないはずの菊池霊社です。

 ご覧の通り、大人にもお子様にも大人気。菊池霊社のうさんくささについては過去のブログをご参照ください。

 その後は六本松を経由して別府橋(「べふ」と読みます)へ。

 ご覧の通り水が流れていますが、これは海水が流れ込んでいるとのことで、潮が引いている時間帯はちょろちょろとした流れだとのことです。何度も見た川ですが、全く気にとめたことがありませんでした。
 なぜこの川をわざわざ紹介したのかというと、かつてはこの一帯は海に近く、干潟のようになっていたことを示しているのです。蒙古襲来絵詞に

 つかハらよりとりかひのしほひかたを、おほせいになりあハむとひくをおかくるに、むまひかたにはせたハして、そのかたきをのハす。

 と、干潟で足場が悪いという記述が散見しています。土地勘の悪い元軍はこのあたりを通って撤退し、追いかける季長もこのあたりを通ったことでしょう。
 なお、赤坂から西へ逃げる元軍は2手にわかれるのですが、赤坂から西に向かって目に入る小高い丘陵は2つだけです。小勢が向かった「つかハら」と大勢が向かった「すそはら」です。とりあえずの逃げ場として選んだのでしょう。
 なお、「つかハら」が古墳でもあるこちら。

 たしかに、周囲で小高い場所はここぐらいしかありません。

 次に向かったのがこの謎の神社です。

 地図には載っていない、史跡としても指定されていない小さな神社です。
 祭神は村上隼人正信綱という人物ですが、由来によると後の弘安の役で戦死した人物となっていますが、彼の名前は記録を探してもどこにも見つけることができないそうです。
 家名を高めるために戦歴を詐称することはよくあることなのでしょうが、それを目的とした「村上氏」が誰なのかもわかっていませんし、名乗り出ても来ていません。
 しかも前原さんによると、この地は確かに実際に戦いが行われた可能性が高い場所であり(この神社自体は少し移築されていますが)、民間伝承として残り続けていることから、もしかしたら本当に過去にそういう人物がいたのかもしれない興味深い事例とのことでした。

 続いて塩屋橋へ。

 遠くに見えるのが塩屋橋です。
 この川の両脇は非常に低く、ここもまたかつてはすぐに干潟になるような場所だったとされます。塩屋と言えば、「しほやのまつ」の前で跳ねた馬にまたがる季長の絵が有名です。

 けうとすそハらより、とりかいかたのしほやのまつのもとにむけあハせてかせんす。

 もちろん、今は松を見つけることはできませんが、もしかしたら季長が炸裂するてつはうに苦戦していたのはこのあたりだったのかもしれません。

 最後は、「すそはら」こと現祖原公園へ。ここは武房に敗れた元軍の大勢が逃げ込んだ山ですね。

 最近手が加えられたようで、ご覧の通り見晴らしが良くなっています(かつての姿はこちら)。

 東の方をみると、たしかに前原さんのご説明の通り、赤坂からこちらまではずっと平地で、軍勢をおけるような丘陵は「つかハら」とこの「すそはら」ぐらいですね。長々と絵詞では説明されてはいますが、簡単に歩ける距離、馬にしたらものの10分の距離の戦いを描いていたわけです。
 それ以外の戦いがどのように行われたのかはわかっていませんが、日本軍は水城まで撤退しているわけですから、要は武房公以外はボロ負けだったのでしょう。初めて前原さんからお聞きしたのですが、水城周辺からは元軍の兜がでてきたことがあるとのことですから、やはり水城まで攻め寄せられたのでしょう(武房公が獲ってきた首についていた兜をポイッと捨てたのかもしれませんけどね)。

 その後は百道と藤崎の石築地跡をちょろっと見て解散しました。前原さんありがとうございました。

春日寺(岫雲院)

 前回ご紹介した初代菊池則隆公による春日神社勧請の際に、神護寺として建立されたのが春日寺です。かつては春日神社とセットで結構な規模を誇っていたようです。

 後に衰微し、菊池の正観寺の末寺となります。さらに衰退していたのを、細川忠利が再興し、岫雲院の名が付いたそうです。そういう縁もあり、遺言で忠利はここで荼毘に付され、愛鷹二羽は火葬の炎、井戸にそれぞれ身を投じたとの言い伝えがあるとか。

 初訪問は2009年9月だったのですが、ぶったまげました。
 というのも…

 どうみても人がいるようには…と言いますか、既に廃墟と化しているとしか見えませんでした。

 則隆公が建てたお寺がこんな…と思っていたのですが、しっかり人はいらっしゃって、もう一つの目的だった大友兄弟のお墓も無事見つけることができました。

 看板はなく、刻まれた文字も極めて読みにくいです。左が大友親盛、右が親家です。二人は大友宗麟の次男三男なのですが、長男義統が朝鮮出兵でやらかして改易されたため、細川家にやっかいになってたためここに葬られたようです。お寺の人によると、かわいそうなことに今や誰も訪れないとのことです。

 また、細川忠利火葬場の標柱や、井戸につっこんだ愛鷹についての標柱もあります。
 

 さて春日神社の時にも紹介しましたとおり、この地区、九州新幹線開通を機に再開発されています。春日神社はあの通り存続していますが、春日寺は新幹線から見ると、なんと消滅していたのです(墓石群だけぽつんと残る)。
 ひどい、あんまりだと思っていたのですが、先月(2013年10月)ふらりと周囲を散歩してみると、なんと新築工事中でした。


 大友兄弟の墓も残っています(場所が微妙に変わった気がするのは気のせいでしょうか)。


 火葬場跡、井戸については工事が終わってから訪問して確認しようと思います。

【文献】
忘れました。

【春日寺】
熊本市西区春日3丁目 昔は駐車スペースがありましたが、今はどうなのか工事終了待ち

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