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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「菊池五山」の記事一覧

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九儀山大琳寺

 菊池五山最後は、九儀山大琳寺です。東西南北の四山の中心に位置しています。開基年月や由来は不明です。
 現在も地名、交差点に大琳寺の名前が残っていますが、かつて寺は現在地の東(菊池風土記)か南(堤克彦氏)の「古堂」に立っていたらしく、菊地氏が滅亡した後も大友宗麟が住職を任じているのですが、いつ無住寺になったかは不明です。「古堂」がどこか字名を探してみたのですが、よくわかりませんでした。
 1755年8月24日の大風で堂舎が吹き倒れたため、現在地に移りました。


 ごらんのとおり民家に隣接したひっそりとした佇まいです。
 元の本尊は大日如来だったそうですが、現在は観音菩薩が祀られています。


【文献】
堤克彦『郷土史譚100話 菊池』
『菊池風土記』

【九儀山大琳寺】
菊地氏大琳寺 目の前に駐車スペースあり

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輪足山東福寺

 先日、金峰山に登ってきたので、そのことについて書こうかと思ったのですが、菊池五山をまだ3つしか紹介していないのが気持ち悪いので先に残りの2つについて。

 諸説あるが、936年、輪足(亘)村に天台宗の証慶法印が開いたと『菊池風土記』にある。それによると、色々あって地面を掘ってみると霊らしきものが出てきて「ここに寺を建てたら永久に守ってあげるよ!」と言ったから建てたようだ。
 しかし1047年、賊徒(だれ?)によって焼失してしまったのを、1072年に菊池則隆公により再興され、9代菊池隆泰公の子が覚仏と称して庵を開いたともされる。
 その後また衰微したのを再興して菊池五山に加えたのがみっくんこと菊池武光公。



 このお寺には重要な人物の墓が複数あり、まずはなんと言っても武時公の義弟にあたるという菊池(赤星)寂正公。

 なんとこのお方、正三位を授けられています。みっくんやしげちー達が従三位ですから、その上を行くわけです。
 とっきー(従一位)と一緒に探題館討ち入りに行って戦死したのが評価されたのでしょう。しかしそれなら頼隆公は…。

 さて気を取り直してその近くにあるのがこちら。

 こちらは菊池武村公。しげちーの大叔父にあたり、しげちーと一緒に上京し、箱根やらで貴重な戦力として足利勢と戦っています。大渡の戦いで戦死しました。

 また、少し離れた場所にはしげちーの嫁さんとその次女のものとされるお墓もあります。

 菊池本城(深川城)落城の際に、自害したとか。つまり、菊池武士公の時代ですから、すでに未亡人でいらっしゃったわけです。

 他に一族では城為重という人物の墓もあります。現地の看板では為「量」となっていますが、『菊池氏史要略』の系図をみるに、為重で間違いないでしょう。

 何をされた人なのかはよく存じ上げませんが、城家の当主だったのでしょう。

 さてこの東福寺、かつては広大な敷地を誇ったようで、付近にはその名残があります。次回からは東福寺関係の史跡について。

【文献】
『菊池氏史要略』
『菊池風土記』
堤克彦『郷土史譚100話 菊池』

【輪足山東福寺】
菊池市亘 Pは南側のスペースに駐められなくもないが、だいたい誰か(近隣住民?)が先に駐めているため、菊池グランドホテルの前のスペースに駐めて歩くのが無難かと。

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手洗山南福寺

 またも久々の更新になってしまいました。

 菊池五山の紹介がまだ2つだけで気持ち悪いですので、残りをご紹介していきます。今回取りあげるのは手洗水山南福寺です。

 文献によっては手「水」山となっています。

 近くに清泉があるため手水山と名付けられたそうで、たしかに地元の人が釣りをしている池があります。近くには菊池十八外城の古池城があるのですが、この由来になっているかどうかは定かではありません。

 南福寺はもとは天台宗だったものを、菊池五山制定に当たり武光公が浄土宗になったようです。付近に散在する五輪塔は、古池城主の出田氏関係、もしくは後に城主を務めた城氏のものと考えられます。

 なお、『菊池の歴史遊歩』に「菊池の武士の伝説につながる『こまどめの桜』」があるとありますが、これは藩主細川氏が巡視の際に馬をつなぎとめたから、ということらしいです。なんだ、菊池氏と関係ないのか。


 次は近くにある古池城について。

【文献】
『菊池の歴史遊歩』
『菊池市の文化財』

【手水山南福寺】
菊池市出田(上出田)

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袈裟尾山北福寺

 菊池五山のうち、西福寺しか紹介していないのもなんだか気持ち悪いので、北福寺をご紹介します。



 袈裟尾山北福寺は弘仁年間に伝教大師、つまり最澄さんによって開かれたという。
 なんでも『菊池風土記』によると、何とわざわざここまで来て修行していたところ、袈裟と黄金の錫杖が空から降ってきて松の木にひっかかったので、その松を釈氏松と呼び、袈裟尾山永福寺を開いたという。
 結構な規模を誇ったようだが廃寺となったのを、第10代菊池武房公が再興したという。武房公の墓もここにあったんじゃないだろうな…。


 そして第15代菊池武光公が菊池五山を制定した際、北福寺と改称されたという。第21代菊池重朝公の時代には玉祥寺の末寺になったという。玉祥寺についてはいずれ。

 なお、上の写真に右隅に五輪塔があるのがわかるでしょうか。

 これは建武2年に13歳で死去した「藤原力丸」の墓であり、一族格ではないかと言われています。建武2年に13歳と言うことは、大雑把にいくと生年は1322年ぐらい。ということは、武時公の子だったり、もしかしたら武重公の子だったりする可能性もなきにしもあらずか。違うのだろうけど。

【文献】
『菊池風土記』
『菊池市の文化財』

【袈裟尾山北福寺】
菊池市袈裟尾 Pなしも門前にわずかに駐車スペースあり。


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無量山西福寺

 戎光祥出版から、川添昭二氏の『菊池武光』が復刊されました。

 たくさんの写真を提供しようと手ぐすね引いて待ち構えていたのですが、西福寺のみ、私の写真を使用していただいております。

 西福寺は菊池五山の一つで、武房公の弟で元寇で活躍した赤星有隆公と、城武岑公のお墓があります。城武岑公はあの城武顕公の弟のようですが、詳しいことは良く分かりません(『菊池氏史要略』には「重」岑とありますが、『菊池風土記』『菊池市史』『菊池市の文化財』には「武」岑とあり、地輪に銘があるという)。
 『菊池風土記』には赤星武則公や赤星重隆公が葬られたとありますが、墓碑はどこかに埋もれてしまっているのでしょうか。武則公の祖父は菊池武時公の八男・菊池武豊(=赤星武生)公です。
 赤星づくしなので赤星氏の菩提寺だったのかなとも思いましたが、それにしては赤星庄から離れていますね。

 せっかくなので、次回はこの付近の史跡について。

【文献】
『菊池風土記』
『菊池市史』
『菊池市の文化財』
『菊池氏史要略』

【無量山西福寺】
菊池市西寺 Pあり
ご住職さんも質問に色々と答えてくださいます。


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