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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「菊池一族」の記事一覧

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南北朝の動乱と博多

 今年もあとわずかというのに、ブログ更新は5回目です。
 さて、福岡市博物館にて開催の企画展、「南北朝の動乱と博多」に行ってまいりました。
 南北朝の主人公は当然ながら菊池一族、ということは当然、南北朝と博多の主人公も菊池一族(であるはず)なのです。
 どんなに壮大でロマンあふれる企画展かと心躍らせて行ってきたのですが…、小さい部屋1つだけでの展示でした。
 しかし、菊池一族が関わる展示が福岡で行われるのは大変嬉しいものです。
 是非、次回は特別展示をお願いしたい所です。

 この企画展、明日までです。全国6千万の菊池一族ファンの皆さん、明日までに福岡市博物館へ!
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武朝vs良成親王(五條氏)!?―特別展「八女の名宝」

 九州歴史資料館で開催の、特別展「八女の名宝」へ行きました。
 目的は後醍醐天皇が懐良親王に持たせたという「金烏の御旗」。普段は年に一度公開されるのみです(もともとは、日干しのために年に一度外に出していたのが慣習化したとのこと)。
 その他、後醍醐天皇の綸旨や、懐良親王、良成親王、戦国期の大友家の面々の書状等が展示されていましたが、もちろん写真撮影できるわけもなく、図録を購入して帰りました。
 
 良い展示でしたが(もっと感動するかと思っていましたが…)、五條家文書の中で、二点興味深い事がありました。

 一つは、良成親王が「うとうとしい」を連発していること。
 前後の文脈から察するに、現代語に訳すと、「だりぃ」「つかれた」「もうどうでもいい」なんでしょうか。結構お疲れのようです。

 二つめは、良成親王のいる大杣に攻め寄せてきた「道徹」を、五條頼治が撃退した効を良成親王が賞した元中12(1395)年の感状があったのですが、この「道徹」が「大友氏か、裏切った武朝のこと」と展示では説明されていたのです。
 図録の方には、はっきり「菊池武朝撃退の戦功」「北朝へ寝返った道徹(武朝)」とありました。今までいろんな二次三次史料を読んできましたが、武朝が親王の御在所を攻めたというのは初耳でした。
 今川了俊が「手強かった菊池は使える」と武朝の菊池復帰を後押ししたという説はあり、復帰に幕府の意向があったのはおそらくその通りなのでしょうが、かといって武朝が親王をあっさり攻めたというのは驚きです。
 武朝の子・兼朝がひたすら反幕府だったように、武朝は幕府に認められて復帰しながらも、復帰した後はすぐに手のひらを返したか、少なくとも面従腹背していたと思っていました。なお、兼朝の法名が「透関道徹」ではありますが、このときまだ12歳です(武朝「俺なんか12で家督継いで、了俊と戦ったんだぞ。お前も親王と戦ってこい」とでも言って送り出したんでしょうか)。
 武朝や菊池一族のイメージに大きく関係しそうなだけに、気になるところです。
 その後はすぐ近くの小郡市埋蔵文化財調査センターの大原合戦屏風をチラ見し、

 筑後川の「杜の渡し」へ。
 杜の渡しは、大保原の戦い(大原合戦、筑後川の戦い)を前に、菊池方が渡河した地点とも言われます。
 背後の土手に上がっても…

 ここからではよくわかりませんので、東の橋からみると、言われてみれば何となく渡河しやすそうかなぁ、と思います。

花岡興史氏講演「南北朝と菊池一族―近代化における受容と認識」

 20年前の今日は、羽生善治さんが七冠を達成した日なのですが、それはすでに三年前にブログに書いてしまっていました。この頃の更新頻度を取り戻したいものです。

 さて、高瀬について書くとか、武重公が京に上って何をしていたか書くとか言っていましたが、講演に行ってきましたので予定変更です。

 場所は八女市の「岩戸山歴史文化交流館」という、磐井の乱(おっと、「乱」は使ってはいけないのだった)をメインとした、完成して間もない施設です。13時半からの講演で、12:40に到着しましたが、既に結構な人出。それでも、最前列真ん中、スクリーン寄りのベストポジションを確保できました。講演開始時には満席、立ち見はもちろん、部屋の外で聴いている人もいるぐらいの盛況ぶりでした。

 教育長の簡単な挨拶がそこそこおもしろく場が暖まったところで講演の開始です。 
 講師の花岡氏、どこかで見覚えがあると思ったら、菊池武光シンポジウムの進行役の方でした。シンポジウムが正直不満だったので、今回はどうかなという所でした。
 さて花岡氏、実はご専門は江戸時代、島原の乱(ご本人は島原一揆と表現)を研究しているということを冒頭正直に仰っていました。ではなぜ菊池一族についての講演を行っているかといういきさつを説明されていましたが、要はなんか知らんけど菊池一族についての関心が高まっていてそれに巻き込まれたから、のようです。今年は他に4つ(5つだったかも)講演の予定があるとか。

 主題は、「菊池一族像」がどのように作り上げられたのか、ということでした。
 まずはジャブとして菊池七人塚筑後川の戦い(大保原の戦い)と託麻原の戦いの簡単な紹介。戦傷者の数が仮に半分や1/10だったとしても、結構な激戦であったことをお話しになりました。託麻原の戦いの史跡は熊本市民でも知らないという話をされていましたが、筑後川の戦いはおろか、足利尊氏が福岡に来たことも知らない福岡県民が圧倒的多数な訳ですから、そんなものだと思います。ただ、託麻原の戦いの史跡が一つ消滅したという事を知りましたので、次回にでも紹介しようと思います。

 内容としては、オーソドックスに菊池氏の興りからです。花岡氏は藤原氏起源説は採っていませんでした。『探求菊池一族』の資料的価値が専門家の間でどのように評価されているのかを最後の質問タイムで聞こうと当初思っていたものの止めてしまいまいしたが、終了後の雑談を盗み聞きしたところ、「福島の菊池一族」という言葉が聞こえましたので、書の事は知っているようです。それでもそれにあえて触れずに志方説(隆家の郎党説)を採ったと言うことは、「そういうこと」なのだろうと推察します。

 まずは源氏物語の「大夫の監」、そして蒙古襲来絵詞での武房公、そして菊池武朝申状の紹介。武朝の記述に怪しい点があるにも拘わらず、武朝申状が『大日本史』で紹介されたのを機に、藤原氏起源説が一気に広まったこと説明されました。

 その後は菊池氏が皇国史観でどのように評価されているかを説明されていました。『初等科國史』ではみっくんこと武光公(花岡氏は客観性を保つために「公」という言葉を意図的に使わないとのことです)が1章使って紹介されている一方で、『國史概説』では極めて扱いが小さいことを指摘されました。
 このあたりは時間も迫っていて早口だったので誤解があるかもしれませんが、たしかに菊池一族は平泉澄氏からはもてはやされたものの、『國史概説』での採りあげられ方のように、実はそこまで菊池一族が皇国史観の片棒を担いだ訳ではないと。にも拘わらず、戦後の平泉澄氏や皇国史観に対する反動から、菊池一族までもが「右翼的なもの」としてレッテルを貼られ研究することすらタブーとなり、正当な評価を受けられないでいる。今後は皇国史観にとらわれることなく、同時に皇国史観アレルギーにもとらわれることなく、菊池一族を再評価する必要がある、ということだと思います。

 特に新しい発見などはありませんでしたが、菊池一族を客観的に再評価すべきという箇所からは、氏の真摯な態度が伝わってきました(そのため花岡氏は「公」や「乱」という言葉を意図的に使わないようにしているそうです)。90分という短い時間では限界があったのでしょうし、おそらく花岡氏も話そうと思えばもっと話せたのだと思います。

 さて、なぜ最後の質問タイムで質問をしなかったのか。他の人から何も質問がなければ、と思っていたのですが、質問タイムになって真っ先に手を挙げたご老人が一人。マイクが渡る前から熱くなって話し出したから何事かと思ったのですが、講演の中で紹介された人物が恩師(マルクス主義系学者で皇国史観を批判)だったようで、講演の中でその恩師の研究に疑問符を付けられたことで熱くなっていたようです。
 花岡氏は別にその恩師自体にけちを付けたわけではなく、研究に対して疑問を呈しただけだったのですが、それが気にくわなかったようです。ただ学問とは研究成果をぶつけあい、場合によっては批判的に再構築していくものであるわけです(そのように花岡氏も回答していましたが)。それを「この先生はこういう人で立派だった(だから研究にも間違いないはずだ)」という個人的思い出を長々とぶつけられても困惑するしかありません。
 花岡氏は菊池氏を「客観的に評価する必要がある」と講演されていましたが、このご老人は恩師の研究を客観的に評価することを拒否した訳で、花岡氏もさぞ内心苦笑したことだと思います(もちろん、完全な客観は困難であるわけですが、それでも自分が主観にとらわれていないか、客観を心がけているかを絶えず自問する必要があります)。そんなわけで、場がしらけてしまい質問する気が失せたわけでありました。

 ということで、次回は消滅してしまった託麻原合戦史跡について。

服部英雄『蒙古襲来』をほぼ読了

 文永の役については前回まとめましたが、今回は弘安の役についての備忘録です。

○弘安の役
・5月15日の壱岐での戦いでスタート。5月下旬に蒙古軍が志賀島占領。その後閏7月上旬まで戦いは続いた。
菊池武房公や竹崎季長が生の松原にいたのは、志賀島の蒙古勢(東路軍)と対峙していたからであり、『蒙古襲来絵詞』で描かれた戦いも鷹島ではなく志賀島だった。
・石築地の効果で撃退を続けたが(ただし、今復元されているのは高すぎ)、おそらく部分的には突破を許したこともあり、河川・河口干潟からは何度も侵入を許すなど蒙古勢の攻撃も激しく、蒙古側の記録では少弐宗資という人物が生け捕りにされているが、後世の少弐家伝からは消されている。
・『絵詞』の志賀島に描かれている水の中の男は、偵察に行った竹崎季長と考えられる。
・志賀島や能古島の蒙古勢に日本軍が攻撃し、三隻拿捕するなど反撃の成果を挙げていた。そんな中、江南軍がやってきて平戸を占領、志賀島への途上で鷹島に上陸する。
・攻略目標である大宰府の前面である志賀島から軍勢を鷹島に移動させる道理はなく、移動したのは補給督促の一部の軍勢。
・鷹島の蒙古軍と対峙していたのは、北松浦郡星鹿の日本軍で、となると総大将は肥前守護北条時定となり、少弐景資という通説は誤り(せっかくかっこわるい石像があるのに…)。
・大型台風はたしかにやってきたが、被害はむしろ小さな船の日本側に多く、神風ではなかった。日蓮はそれを受けて台風を「日本国の凶事」とさえ言った。『絵詞』に描かれた船は積載過剰で、季長も乗る船に困っている。
・『絵詞』に台風のシーンがないように、武士達は自分たちの働きで蒙古を撃退したと考えた。おそらく、志賀島の台風の被害は鷹島よりも軽微。
・鷹島で沈んだ蒙古勢の船は、帰れなかった人数3000人から計算すると、20隻程度。
・船は20隻沈んでも、将兵達はその上で生活していたわけではなかったので、兵員が激減したわけではなかった。しかし、船を奪う以外に帰還の道はない死にものぐるいの状態。
・台風後の7月5日に志賀島で合戦し、日本軍勝利。
・7月7日には鷹島で合戦。死にものぐるいの蒙古軍だったが、指揮官が逃亡していたため日本軍が圧勝。捕虜は約2000人。
・蒙古側は敗北を台風のせいにしたかったし、日本側も日本=神国の神話に「神風」を利用したため、通説が定着した。

 非常に読み応えがありました。しかし、人々の中の通説を覆すのにはかなりの時間を要することでしょう。

服部英雄『蒙古襲来』をつまみ読み

 昨年末出版された服部英雄著『蒙古襲来』を、適当な章からゆっくりと読んでいます。
 通説にとらわれることなく、蒙古襲来絵詞を軸に蒙古襲来の実像を明らかにするというもので、非常に読み応えがあります。『八幡愚童訓』に対する批判は辛辣です。
 読んでいると、以前にも「通説」に疑義を挟んだ人はいたものの、戦前の雰囲気で消し飛んでしまったものもあったようです。
 興味深かったところを、文永の役を中心に、備忘録的に箇条書きしてみます。

○文永の役
・蒙古勢の将兵は約5600人。
・対馬では激戦は行われていない。
・日本側は1日で水城まで撤退なんてしていないし、蒙古勢の攻略目標である大宰府警固所(現・福岡城あたり)を死守していた。
・上陸戦は夜襲(10月19日夜)、その後も夜戦、夜襲の繰り返しで、「我こそは…」なんて名乗る戦いは行われていない。
・少弐景資が劉復亨を射たというのは副将が先頭にいるわけがなくウソ。また、「流れ矢」は常套句で、本営まで日本軍が踏み込んだ上に射撃して傷を負わせたと考えられる。
・10月20日夜は日本軍が海上で夜戦を仕掛けているから、蒙古勢が台風で1日で壊滅・撤退したはずがない。そもそもそんな史料はどこにもない。
・10月24日にも合戦の記録があり、蒙古勢は大宰府警固所の掌握に失敗している。冬になると日本海の行き来が難しく、撤退・補給が困難になるため推定27日以降月末にかけて撤退。

○菊池一族や竹崎季長について
・我らが菊池武房公がまず戦って撃退する手柄を挙げているから、その後の竹崎季長の「先懸」「一番」は大した功ではなく、海東郷地頭職が与えられたのはこの時ではない。
シンポジウムでも言っていたが、武房は相当な財力だった。
・澁谷龍氏は『探求菊池一族』にて、菊池惣領の家紋は絵詞に見られる並び鷹の羽と一つ鷹の羽の両方としていたが、服部氏は「惣領は並び鷹の羽、庶子は一つ鷹の羽と季長はちゃんと区別させている。えらい!」と明言。
・季長の出身は玉名郡の竹崎。
・三井資長は季長の従者扱いを受けているが、実際は逆。
・季長は相当なわがまま野郎。

 弘安の役についてはまたの機会に。

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