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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「古戦場」の記事一覧

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託麻原の戦いの史跡が消滅

 先日の講演で紹介された託麻原合戦史跡は次の二つです。

 まずは水前寺野球場裏の駐車場にある碑。

 車が邪魔で良い写真が撮れませんでした。

 下にある二枚のレリーフがこちら。

 一枚目が良成親王、二枚目が菊池武朝と紹介されることがありますが、どう見ても二枚目が武朝公です。

 親王は旗や甲冑に並び鷹の羽紋は使わないでしょう。

 託麻原の戦いとは(以下、作成済みのページからほぼ引用)、九州宮方最後の勝利と言ってもいい戦いです。
 本拠から出てこようとしない武朝を引っ張り出そうと、今川貞世は武朝をあえて無視し隈本城(詳細不明)へ入城、肥後南部に進出します。これを放置していては肥後南部の宮方に見放されると、武朝はあえて託麻原へと出陣。今川勢2万騎に対し、菊池勢はわずか3500騎だった(今川6万余騎、菊池2万余騎説あり)。天授四年(1378年)9月29日とのこと。
 してやったりと攻撃を仕掛けた今川軍ですが、武朝が決死の突撃で奮戦。数に任せて圧しつつもうとするも、良成親王の突撃によって勢いを得た菊池勢は、さらに高瀬武国、詫磨武元コンビが奮戦し、今川仲秋勢を圧倒、仲秋勢の後退に連鎖反応を起こして全軍総崩れとなり、見事に勝利したとされます。ただし、本陣の了俊はびくともせず、結局は菊池を追われることになるのです。

 さて、その戦死者の慰霊碑とされるものがこちらの八万千部之碑です。

 「サンパレス桜通り」の端っこに、説明板もなくひっそりと立ちます。
 「戦死」者八万一千ということらしいのでしょうが、仮に6万騎vs2万騎説で、騎が騎馬でその従者がいるとしても、いくら何でも盛りすぎでしょう。ただ、それだけ激戦だったと言うことなのですかね。

 さて、この八万千部の碑、なんと整地されて消滅していることを講演で知りました。花岡氏もサンパレスに問い合わせたところ、「丁重にお祓いをして撤去した」そうで、どこかに再建されたわけでもないようです。碑はどこに消えたのでしょう。なお、ニュースになっていないですし、整地している時に何か地中から出てきたわけでもなさそうです。

 次回こそは高瀬や上京した武重公の話に戻りたいところですが、もう少し脱線して逆にちゃんと保存されている、講演で紹介された史跡について。

【参考文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』など
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陣床(東山公園)と城家の塚

 城氏の墓について書くといいながら、3ヶ月が経ってしまいました。
 城氏の墓シリーズ最後は、陣床の「城家の塚」です。城武東墓峯泉寺の東に位置し、現在は東山公園となり桜とつつじの名所として売り出し中です。
 「陣床」の由来は南北朝期に大友勢が菊池を急襲しようとした際、いち早く気付いた菊池勢が陣を張り、撃退したことから来ているそうです。

 菊池市を遠くにみることができます。

 「説明板その1」がこちらなのですが…

 南北朝時代なのに、大友氏の説明は大友宗麟…。
 
 もっと古い「説明板その2」はこちらで…

 大友氏の説明は大友氏時になっているものの、絵はどうみても島津義久…。南北朝期なのに九州の勢力図は戦国時代…。
 そもそも、赤星有隆は弘安の役の時に既に30歳だぞ。南北朝期まで生きていたとして、1336年には85歳という計算になる…。

 そんなよくわからない東山公園にあるのが「城家の塚」で、「結縁地蔵」と呼ばれています。

 このこんもりとした部分に石棺が埋まっているようで、城林城主・城家の塚だとの伝承があるそうです。城武顕がここに埋葬されていたらすごいぞ。

 しかし現在この幟は

 地蔵尊ではなく、桜とつつじのアピールの幟にとってかわられています。

 「菊池遺産」に登録されたことですし、もっと詳しい説明がされることを期待しています。

【東山公園】
菊池市木庭 Pあるも、西からの道は極めて狭し。東から駐車場に入るのがよいかと。

より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後) を表示

馬門原の戦い

 菊池では古池城を本拠とし、隈本城の前身にあたる肥後千葉城を築城した出田秀信は、文明17年戦死します。
 出田系図には御船(御船陣原という書籍も)にてとあり、菊池市史には馬門原の戦い(幕の平の戦い)にてとあります(他の文献では先鋒を務めたと具体的な記述も)。御船と馬門原とではそこそこ距離がありますが、小競り合いも前後にあったでしょうから、一連の戦いの過程で戦死したということなのでしょうか。

 一連の戦いとは何か、となるのですが、話は馬門原の戦いから遡ること1年、文明16年4月の赤熊の戦いに触れなければなりません。
 赤熊とは現在の熊本市南区富合町木原あたりです。第21代菊池重朝公と、その叔父に当たる宇土為光公が戦ったのですが、この戦いは宇土為光が菊池を乗っ取ろうと起こした戦いだとされてきました。
 しかし阿蘇品保夫氏の研究では、為光が戦をふっかけたにしては戦いの場所が宇土氏の支配領域にあまりに近すぎること、菊池氏はたしかに斜陽であったもののまだ宇土氏が戦をふっかけて勝てるほど落ちぶれていないなどから、むしろ重朝方から攻め寄せたものと指摘されています。
 宇土氏領内の郡浦をめぐる宇土氏と阿蘇・菊池氏の争いが背景にあったなど、詳細は阿蘇品氏の『菊池一族』をご参照いただくとして、私もこれに賛同します。ともかく赤熊の戦いは菊池方の勝利に終わり、為光は亡命し、相良氏を頼ることになりますが、ここに火種が残ったのでした。

 馬門原(幕の平)は「益城郡矢部」にあります。現在の山門町杉木に石柱がたちます。

 周辺はどんなところかというと…

 森に囲まれた平地で、現在は畑になっています。戦いが起こった場所ですから、てっきり小川でも流れているのかと思っていました。他の文献でみた写真とも風景が違いますので、そもそもこの石柱が正しいという保証もありませんけどね。

 文明17年12月、戦いは為光が亡命した相良氏と阿蘇惟乗連合軍がまず1つ。もう一方は菊池重朝と阿蘇惟歳・惟家連合軍で、阿蘇家の内紛も絡んでいたわけです。
 戦いは菊池方は「宗たる面々」数十人が討ち取られたそうですから、この中に出田秀信も含まれていたのかも知れません。結局は相良・惟乗方の勝利に終わり、宇土為光は宇土に復帰し、相良氏は八代、豊福を得ることになります。ただし、八代と豊福は、後に第22代菊池能運公によって奪還されます。

 なお、私が作成した馬門原の戦いページとWikipediaの内容が酷似していますが、作ったのは私が先です。参考文献も違います。常々学生さんにはWikipediaは信用するなと行っていますが、私のサイトごときと意図的かどうか内容が酷似しているぐらいですから、やはり、といったところでしょうか。

 次回は出田氏の話に戻り、出田武房という人物について。

【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』
『熊本の古戦場』
『熊本の城』

【馬門原古戦場】
上益城郡山都町杉木 Pなしも駐車可能

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