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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「お城」の記事一覧

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肥後瀬戸口城

 松島城同様、城郭大系に載っていない菊池の城として、瀬戸口城があります。
 台(うてな)台地の北西端にあたり、城があってもおかしくないといえばその通りです。
 ただし、現在は畑となっており、遺構をうかがい知ることはできません。


 さて、城郭大系に載っていないのであれば、出典はどこかということになりますが、『七城町史』です。
 これによると、台城木野城を結ぶ狼煙台程度としていますが、「ひらくち谷」という登城口が伝えられています。写真も掲載されていますが、暑くてスルーしてしまいました。

【文献】
七城町史

【瀬戸口城】
菊池市七城町瀬戸口 Pなし。ていうか、見渡すかぎり畑。
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松島城と松島御前

 久々に菊池を訪問し、関連史跡を巡ってきました。菊池の、しかも新しい史跡訪問は、楽しくて暑さを少しだけ忘れてしまいます。

 その中から、今回は松島城をピックアップしました。出典は『七城町史』です。
 ただしこの松島城、城郭大系にも城郭全集にも名前がありません。では掲載されていればいいのかというとそれも微妙な気もしますが、細かいことは気にしないことにしましょう。

 その松島城は、松島地区にあります(現在の住所は七城町小野崎)。松島地区は、菊池独特の馬蹄状の高地の南側先端に当たります。ご存じの通り(?)北側先端にあるのが台城です。


 現在は公園化されています。特に城郭としての説明板もありません。


 眺望は良く、遠くには台城も見えます。

 遺構は特に見当たりませんが(暑くて藪には入っていません)、西には合志川、東には打越城が控えており、城があったとしてもおかしくないかな、というのがド素人の直感です。

 その松島城には、松島御前のお墓もあります。

 松島御前とは…、これもよくわかりません。
 資料によっては菊池武時公の妻とあるし、七城町史では菊池武光公の側室とあります。七城町史に則ると、美人の側室だったようで、年賀塚での宴会ではみっくんの側に侍って酌をしていたとか。

 実はこのお墓、永禄十年七月十五日と刻まれています。ということは、200年以上生きたご長寿ということになりますが、そんなはずはありません。
 誰かが後にいたずらで刻んだのか、そもそも別人の墓なのか。後者でしょうが今となってはわかりません。

【文献】
『菊池氏史要略』
『七城町史』

【松島城】
菊池市七城町小野崎 北にPあり。

筑前鷹取城

 3/7のことですが、またも倭城でお世話になった黒田慶一さんに便乗して、筑前鷹取城に行ってきました。しかも木島孝之さんのガイド付き。

 鷹取城といえば、六端城ということで世間には知られているかもしれませんが、菊池武宗が落城させたかも知れない菊池氏関連史跡なのです。ただしこの菊池武宗がどういう人物なのかよくわかりません。1399年と言えば菊池武朝公時代ですが、武朝公の命を受けて攻略したのかもよくわかりません。

 ともあれ、その鷹取城、不法投棄を警戒して林道に車で入れないため、林道を歩くことになります。舗装された道を歩き、ちょっと山道に入ると秋月期と思われる遺構を横目にみながら歩くこと1時間半、主郭に到着します(ずっと山道というルートを仕えば時間はいくらか削減されますが、その分体力の消耗が大きいようです)。

 最初は「あの(奥の)山ですよ。はは、すぐですよ」と言われ、いくら歩いても近付いてこないので不安に思っていたら、あれは福知山でした。木島さんでもうっかりがあるようです。

 主郭はこじんまりとしており、外郭は外枡形、主郭は内枡形という合理的な造りだったようです。ただし、このこじんまりとした造りに母里太兵衛は「いかんやろ」と主君黒田長政にクレームをつけたようで、長政の「攻められてもちょっとすれば援軍が来るけん、そこまで気張らなくてもよか」という返事に太兵衛は激怒し、「そげな城を誰が守るか」と築城をボイコットしたとか。長政の本音は父時代からの重臣とは言え、立派な城を与えて頭に乗られては困るという感じだったようです。


 木島さんによると、黒田は細川との国境に城を配置しているものの、細川の方はそうではないようです。例の事件で細川も黒田に対する嫌がらせはしているようですが、きっかけを作った黒田の方に負い目があって築城したのでしょうか。

 さて、この城は秋月の遺構も良く残っています。畝状竪堀は本数は長野城ほどではないものの、一本一本の大きさは目を見張るものがあります。写真ではわかりにくいでしょうが…。

 残念ながら、いずれの遺構も菊池武宗が攻略したときにはなかったのでしょう。

 ところで、この日は木島さんからは非常に面白いお話を聞くことができました。お話ししても良さそうな範囲でご紹介します。

 某局から木島さんに「会津若松城が落ちたのは糞尿のせいというコメントをしてくれ」、という依頼あったとか。木島さんは「糞尿の話は他の籠城戦でもあるし、落城の理由はそれだけではないだろうし、第一そんな放送したら白虎隊やら会津魂を汚したというクレームがくるからやめとき」というアドバイスをして丁重に断ったところ、それを無視して放送したら、案の定謝罪文を掲載する羽目になっています。

 他のお話しとしては、話題になっているらしい佐世保の小佐々城麓の水軍城と称する石積みは、行けば単なる農耕遺跡であることが一目瞭然であり、教育委員会も無視しているとのことで、それがなぜここまで話題になってしまったのかその背景も教えてくれました。
 杉山城問題についても詳しく教えたいただきましたが、私は杉山城をそもそも知らなかったのでよくわかりませんでした。

※ あくまで私の記憶に基づいています。

肥後千葉城

 菊池十八外城の1つ、古池城は代々菊池一族出田氏の居城でした。その出田氏が築城したお城が熊本市内にあります。

 NHK熊本あたり。バス停近くににちっぽけな城趾碑があり、千葉城の名前が見えます。千葉城は出田秀信の築城とされ、藤崎八旛宮文書には「出田山城守」との記述もみられます。
 現在ここは千葉城町と言われますが、城郭大系も指摘するとおり、城の遺構はほぼないと言えるでしょう。

 東側には坪井川が流れ、水堀の役目を果たしていたのでしょう。

 …と思いきや、この坪井川は昭和初期までは違う流れだったそうで、参考にならないと城郭大系にあります。現在の熊大附属幼稚園の向こう側を川が流れていたそうで、むしろその辺りまが居住区だったのではないかとのことです。
 県立美術館分館が二の丸とされ、その西側の茶臼山に挟まれて道路となっている所に、かつては玉川が流れていたそうです。

 一画にはこのようなものがありますが、私はこの御仁に余り興味がありません。
 

 出田系図によると、出田秀信は文明17年、御船(御船陣原)で戦死したとされます。文明17年と言えば馬門原の戦いですが、菊池市史には馬門原の戦いで戦死とあります。
 出田氏は秀信の子・重綱以降は衰退し、城政冬が出田氏を継ぐことになります。その後鹿子木寂心が隈本城を築き、千葉城は廃城となったと考えられます。

 後に肥後国人一揆で佐々成政が肥後田中城を攻めている隙に、菊池一族の菊池武宗が隈本城を攻めました。しかし、慌てて帰ってきた佐々成政のために攻め落とせず、自刃したのがこの千葉城あたりだったとされます。

 次回はその隈本城か、馬門原の戦いか、出田氏の子孫について。

【文献】
『菊池氏史要略』
『新熊本市史』
『城郭大系』
『熊本の城』
『菊池市史』

【肥後千葉城】
熊本市千葉城町 Pなし

より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後) を表示

肥前勢福寺城

 先日訪れたお城の中から、肥前勢福寺城をピックアップしてみます。

 城郭大系によると、勢福寺城の築城年代は明確ではないが1353年頃、一色直氏により築城かとされています。
 興味深いのは、城郭大系の一文で、仁比山城の事を「勢福寺城と考えられる」としているところです。仁比山城は菊池武安公築城とされるお城ですが、あまり詳細がわかっていません。いっそのこと両城が同じであれば、訪れる労力が減って楽なのですがね(笑)。

 さてその勢福寺城も情報が少ないお城だったのですが、最近登山道が整備されたためこれから訪城記録がどんどん他のサイトにもアップされていくことかと思います。
 登山道は種福寺にあります。

 種福寺には江上家種のお墓があり、「種」は家種からとっているようです。

 登山道は裏側にありますが、わからない場合は素直にお寺の方にお聞きすると教えてくれました。場所的にちゃんとお断りしてから登るのが良さそうな気もします。


 お寺の方は小さい頃はこの山を遊び場にしていたようで、山頂までは30分ぐらいだろうと教えてくれました。
 道はこの通り虎ロープや階段が設置されており、山頂まで迷うことはなさそうです。


 登り始めて10分ほど、城郭大系の「三の丸」はまだかなと思っていたら、大きめの堀切に出くわしました。

 親切に「堀切」の看板もあります。

 さらに3分するともう一つ小さめの堀切です。


 またさらに3分ほどで視界が開けた場所に出ます。すると「展望岩」の看板があり、なるほど良い眺めです。

 左のこぶが松崎城で、右に下に見えるのが長崎道です。平野も一望できます。
 長崎道が見下ろせると言うことは、おそらくいつの間にか三の丸は通り過ぎているようです。

 そこからさらに10分もかからない内に、ようやく広い平地に到達します。ここが城郭大系で言う二の丸のようです。

 特に西側に土塁が続きます。



 さらに進むと虎ロープで囲まれた井戸があります。

 内壁は岩で固められていますので、雨水などを貯めていたのでしょう。

 そのすぐ先が本丸で、ここには気合いの入った土塁があります。

 土塁の上には三角点が。

 気合いが入った土塁だと思ったら、その先には虎口がありました。

  虎口の先から土塁を見上げるとこうなります。

 気合いを入れたのには理由があったのですね。

 そのすぐ先には堀切があります。

 自然石が良い感じですね。

 さて、説明板等があるのはここまでのようでしたが、せっかくですのでもう少し先に行ってみることにしました。
 進むこと約5分。こんな所に登り石垣!?

  ではなく、自然石でした。しかし、ここは自然地形を利用した堀切になっているように素人には見えました。


 その先にも似たような地形がもう一つ(たしかこの写真だったような…)。

 人工ではないかもしれませんが、堀切として活用されていてもおかしくないという印象を受けました。

 さて、その先にようやく平地が現れます。主郭から尾根沿いに北西に進んだ地点です。

 ここにはこの城で初めて腰曲輪らしきものをみつけることができました。

 
 この郭は周囲を土塁でぐるりと囲まれているのが印象的でした。


 その先は傾斜が厳しく引き返そうかと思いましたが、下に石積らしきものが見えたので少しだけ進みましたが、自然石でした。ということで今回はここまでにしました。

 次回は詳細な縄張図を持参したいところです。

 ところで、ゲーム「信長の野望 天下創世」に勢福寺城が登場しますが、ゲームではクネクネとしたクリークに囲まれた平城のような作りになっています。おそらく、平野部のクリークを意識してデザインしたのでしょうね。


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