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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「今日は何の日」の記事一覧

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700年前の1316年

 あけましておめでとうございます。
 今年は昨年よりは、ブログの更新回数を増やしたいところです。

 さて、「今日は何の日」ではありませんが、「○○年前のこの年」に菊池一族で何かイベントはなかったかと年表を眺めておりましたところ、700年前の1316年、第12代菊池武時公が日輪寺を再興しておりました。

 イベントとしてはやや地味ですが、せっかくなので日輪寺について書こうと思ったところ、何となくブログをチェックすると、2013年3月に既に書いておりました。

 ということで、日輪寺についてはこちら(ブログ記事)をご覧下さい。

 写真なしというのも味気ないので、庭園の写真を。


 それでは今年が菊池一族にとって良い年でありますように。
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博多合戦

 680年前の今日、元弘3年3月13日は博多合戦が行われた日、すなわち第12代菊池武時公のご命日です。
 博多合戦については、若干内容が異なるものの『太平記』と『博多日記』が伝えています。

 後醍醐天皇の打倒北条の綸旨を受けた菊池武時公は、少弐・大友にも使いを送り、自らは阿蘇神社に参詣し鏑矢に添えて歌をを奉納したとされます。
「武夫の上矢のかぶら一筋に思ふ心は神や知るらむ」

 後醍醐天皇が隠岐を脱出するなど不穏な雰囲気を感じた鎮西探題北条英時は、九州の諸族を博多に招集します(『博多日記』)。身辺警護と探りを入れるのを兼ねてのようです。
 武時公は3月11日に博多に到着し、息の浜に宿営します。現在マリンメッセがあるのが「沖浜」ですが、その近辺かもしれませんね。
 そして翌12日、探題館に出仕したところ、下広田新左衛門尉に「遅刻だよ」と言われて激しい口論になったそうです。武時公は「I will be back」と言い放って宿営地に戻り、その夜酒宴を開きます。この時既に探題襲撃を決めていたとも言われます。一説には、肥前の尊良親王の蜂起が14日であったことから、探題の対応から1日計画を早めたとも。

 さて、13日の寅の刻、武時公は所々に火を放ち探題館を目指します。少弐・大友にも使いを送りますが、少弐には使者を斬られ、大友から斬られそうになった使者が帰ってきて、武時公が放った有名なセリフが「日本一の不当人共!」です。
 探題館の場所は確定されてはいないようですが、櫛田神社東方が有力なようです。

  この辺?

 『博多日記』では「此は御所か」と言って誤って櫛田神社へ入ったとありますが、前日に探題館に行っているのに間違うのがおかしいと、平泉澄と西川虎次郎陸軍中将の両氏は言います。西川中将は探題館を包囲するため、作戦上隣接する櫛田神社に入ったのだろうと考えています。


 『太平記』でも櫛田神社は登場します。
ーーーーーー
 櫛田神社を乗馬して過ぎようとしたときに、神様が「凶だよ!やめとき!」とアドバイスしようとした(or乗馬を咎めた)のか、武時公の馬が動かなくなってしまった。武時公は立腹して「いくら神様と言っても止めるとは何事だ!それならこれを食らえ!」と神殿の扉に向かって「矢一つまいらせん」と言いながら二発矢を放った。すると馬は動き出し、武時公は「ふふん」とあざ笑って通り過ぎた。後で見ると大蛇が矢に刺さっていた。
ーーーーー
 西川中将は「武時がそんなこと無礼なことするはずがない」と言っていますが、平泉氏はこれをもっていかなる手段を用いても探題を討つべしと部下に決意を促したと解釈しています。

 戦いは『博多日記』は武時の義弟、菊池覚勝(寂正)が御所に討ち入って中庭まで攻め込んだとし、『太平記』でも英時が自害をしようとしたとするなど、菊池勢優勢で進んだようですが、探題方の援軍として少弐・大友がやってきたため形勢が逆転したようです。
 そして武時公は袖ヶ浦まで退いて、武重公を肥後へ帰らせ後を託します。いわゆる「袖ヶ浦の別れ」ですね。ただ、袖ヶ浦の場所はよくわかっていません。西川中将は肥後へ帰らせることを考えると、冷泉津ではないかとしています。
 武時公が武重公に託した辞世の句は、このブログでも紹介したとおりです。

 武時公と共に戦死したのは子の三郎頼隆、隆寂(経重か)、義弟覚勝(寂正)。先ほどご紹介したとおり、覚勝は70人程で中庭まで討ち入り全滅したとされます。
 武時・頼隆・覚勝の3人の首は犬射馬場にさらされたとのことですが、それが4,5日後の事でしかも夜は隠したということから、西川中将は実は偽首ではないかと疑っています。

 武時公のお墓についてはこれもまたブログで紹介したとおり、七隈の菊池神社と六本松の菊池霊社ということになっています。

 これから70日後、今度はその少弐・大友らによって探題北条英時は自害します。「哀れなるかな」とは『太平記』の弁。

 次は山鹿にある武時公の供養塔について。

【文献】
西川虎次郎『博多と菊池寂阿公』
平泉澄『菊池勤王史』

今日は何の日-多々良浜の戦い

 677年前(延元元年:1336年)の今日、現在の福岡の多々良川河口付近の多々良浜で、足利尊氏率いる武家方と菊池武敏公率いる宮方との戦いが起こりました。
 「え?足利尊氏って福岡に来たの?」と聞かれることがあるぐらい、歴史教科書ではスルーされてしまいがちですが、これは南北朝期がナイーブな話題だからでしょうか。

 ともあれ、大雑把な経緯はこうです。建武の新政による武士の不満は鬱積し、それを酌む形で足利尊氏が離反、後醍醐天皇の建武の新政は崩壊します。尊氏は後醍醐天皇を敵に回すのではなく、あくまで君側の奸である新田義貞を討つとの名目でしたが、後醍醐天皇は尊氏討伐令がを出します。この時第13代菊池武重公は後醍醐天皇の呼びかけに応じ上京し、菊池千本槍の逸話を残す活躍を見せることになります。
 さて尊氏は中央の戦いで敗れ、九州へ逃れます。この時、赤松円心のアドバイスで光厳上皇の院宣をゲットします。

 九州では足利尊氏が来るという知らせを受け、宮方がこれを迎え撃つことになります。宮方の主力となったのは菊池勢ですが、当主の武重公が上京して不在のため、弟の九郎武敏公を総大将に菊池・阿蘇勢を中心に形成されます。いつも不思議に思うのですが、この時武澄公は何をしていたのでしょうね。
 宮方は激戦を繰り返しながら北上し、有智山城では少弐貞経を自害させ、博多合戦での父・武時公の仇討ちに成功します。
 そして多々良川を挟んで両軍は対峙することになるのですが、現在の東区の流通センターのあたりだったとされ、現地には「多々良潟の碑」が立ちます。


 足利勢は川を挟んで北に陣を敷き、尊氏は現在水道タンクが複数ある丘陵を本陣としたようで、現在も「陣の越」と呼ばれています。この要所に陣を置けたのは尊氏にとっては大きかったようです。

  現地には看板が立っています。

 さて、両軍の数は『太平記』では宮方3万vs武家方3百、『梅松論』では6万vs1千とありますが、当主でもない武敏公がこれだけの数を率いられるはずはなく、実際はほぼ同じぐらいだったのを、苦戦したので菊池勢は大軍だったということにしてかっこつけたのだろうという説があります。ただ、尊氏が開戦前に絶望したと言うぐらいですから、宮方の兵力が多かったのではないでしょうか。
 ともあれ、宮方も連戦の疲れが蓄積している上に、士気が高いのは菊池・阿蘇勢など一部でした。しかも高所に陣をとっている足利勢は風上から攻撃をしてきたため、苦戦を強いられます。強風で前進できず、矢が風の乗って飛んできて不利に陥りましたが、武敏公が陣頭指揮を執って盛り返し、尊氏の弟・直義は死を覚悟しますが、その奮戦に発憤した尊氏や足利勢も決死の覚悟で戦います。そして宮方だった松浦党らが後方で武家方に寝返ったため、激闘3時間、宮方は敗北してしまうのです。これを「多々良浜の戦い」と言います。「川」ではなく「浜」であるのは、当時は埋め立てがされておらず、現在と海岸線など地形が違ったのでしょうね。
 その戦死者を弔う「兜塚」が現在も流通センター付近に残っています。流通センターの建設の際に、地中から何か発掘されるのではないかと期待されたそうですが、何も出てこなかったようです。


 その後、武敏公は追撃を受けながら何とか菊池に逃れますが、阿蘇惟直・惟成公は天山で自刃したというのは前回ご紹介したとおりです。
 勝利した尊氏は九州の軍勢をまとめ東上し、新田・楠木勢など宮方と戦い勝利することになります。その後すんなり尊氏が安定した政権を樹立できたわけではありませんが、この戦いは宮方からすれば尊氏を討ち取る千載一遇のチャンスを逃したことになったわけです。

 尊氏の評価は後醍醐天皇に背いたと言うことでずっと酷かったわけですが、再評価されてきています。少なくとも、戦は強く、人に優しく、物欲がない人間としては好人物だったようです。冷酷になりきれず人が良すぎたために、戦乱を長引かせる要因を作ったとも言われますが。

 しかしここですんなり尊氏が討ち取られていたら、その後の戦乱で菊池一族が名前を残すこともなかったかもしれないわけですね。

今日は何の日-菊池能運公のご命日

 文亀4(1504)年2月15日は第22代菊池能運公のご命日です(2月13日もとある方の命日でしたが、うっかりしていました)。
 
 写真は菊池神社蔵の能運公像です。菊池一族で現存する数少ない肖像画の一つで、百年忌の1603年に描かれたと伝わります。ネットから拾ったもので、撮影禁止の宝物館で撮影したわけではありません。

 能運公は武光公からの嫡流最後の当主で、父・重朝の跡を継いだのは1493年、12才(14才とも)の時でした。
 ただでさえ若いのに、その上、父・重朝の数々の失態の尻ぬぐいをせねばならなかったわけですから、それは大変な苦労をされた人物です。
 まだ10代で相良為続から豊福城を奪い返し、天草を支配下に置いたまでは良かったのですが、重臣の「隈部退治」を目論んだ玉祥寺原の戦いでは一族をうまくまとめることができず大敗を喫し、島原に逃れました。この時、「武運」が「不運」に繋がり縁起が悪いと、「能運」に改名しています。
 不在となった家督の席には、家中「老弱一味同心」(『五条文書』)で大叔父の宇土為光が推戴されたのですが、宇土為光は野心からずっと家督を狙っていたのだと誤解されがちなかわいそうな人物です。

 さて能運公は相良長毎(為続と違い能運を支持)や菊池に残る家臣の支援を受け高瀬に上陸、為光との合戦に勝利し、為光は後に自害、能運公は隈府に復帰します。
 改名の効果覿面、さてこれから…と言うところでしたが、高瀬での傷が元で、1504年の今日死去したのです。家督相続からわずか11年、12才家督相続説を採るなら、23才でした。墓は正観寺の実相院にあり、夫婦の墓と言われます。

 さて能運公、どうやら奥さん(隈部武治の女)はいたようですが子供はなく、再従兄弟の菊池政隆(肥前政朝)に守護職を譲ると言い残したのですが、菊池氏の正統が途絶えたこともあり、菊池家は衰亡の一途をたどることになるのです。

 なお、能運公は島原に逃れる際、弟の重房に子・重為を託して米良に逃し、米良菊池の起源となったとも言われます(諸説ありすぎ)。かの菊池武夫はその子孫を称しています。

 たぶん次は能運公も頼った島原の肥前家との関係について。

文献 堤克彦『郷土史譚100話 菊池』 阿蘇品保夫『菊池一族』

【正観寺実相院 菊池能運公墓】
菊池市隈府(菊池グランドホテル南側) 墓前に駐車スペースあり


より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後) を表示

今日は何の日-羽生七冠制覇

 17年前の今日、1996年2月14日、羽生善治六冠が王将戦第四局で谷川浩司王将に勝利し4-0で王将位を奪取、前人未踏の七冠制覇の偉業を達成しました。え?バレンタイン?なんですかそれ。

 羽生フィーバー、懐かしいですね。

 実はこの七冠制覇、一度は潰えたと見られていました。というのも、さらに一年前初の六冠王となった羽生六冠は、七冠目を賭けて谷川王将に挑戦し、フルセットの末3-4で挑戦に失敗しています。阪神大震災で被災した谷川王将の見事な防衛でした。
 さすがにそこから6つのタイトルを防衛し、さらに王将挑戦権をまた獲得するなんて、いくらなんでも羽生先生でも無理だ、七冠は夢に終わったとほとんどの人が思ったのですが、なんと6つのタイトルをすべて防衛し、さらに王将挑戦権も獲得したのです。そして結果は冒頭の通り。

 あれから17年、獲得タイトルは既に歴代最多の83期、42才で未だに3冠保持ですから驚きです。

 さて、囲碁界では井山裕太五冠が六冠目に挑戦中です。井山フィーバーが果たしてくるかどうか。
 なお、井山五冠の奥様は女流棋士の室田さんです。
 昨年夏、新婚の室田女流初段と。

 明日も今日は何の日?について。

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