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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「お墓・お寺」の記事一覧

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蒼園山願行寺

 福岡市では激しい雷雨と共に、雹が降ってきました。
 ということで、雹に関係する菊池一族関連史跡を一つ。

 玉名市にある願行寺は、龍造寺隆信の首塚がかつてあったことと、後に九州に遠征した秀吉の宿営地となったことで知られています。

 隆信の首塚、正確には元首塚はこちら。

 佐賀の高伝寺に移葬された際、実際に骨が出てきたそうです。

 これが高伝寺の墓。


 さて、戻って願行寺の秀吉の陣太鼓はこちら。

 さすがに傷んでいます。

 さて、龍造寺・秀吉で有名なこのお寺の山門は、実は菊池武時公が寄進したとされます。

 どう雹と関係しているのかというと、寄進した際に雹が降ってきたという言い伝えが残っているのです。

 なお、玉名市歴史博物館の資料だと、1349年開基とありますが、まぁお寺の人も武時寄進と言っていたので間違いないでしょう。

【蒼園山願行寺】
玉名市高瀬 Pなし。
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菊池七人塚

 八万千部の碑のように消滅してしまう史跡がある一方で、しっかりと護られている史跡もあります。
 先日の講演会で紹介された、菊池七人塚も同様です。

 花岡氏同様、私も菊池から鯛生金山へと車を走らせている途中に看板を発見しました。
 雨が降っていましたが、鯛生金山にもう行くことはないだろうし(といいつつ、実は翌日再度訪れる羽目になった)、スルーすると後々公開するかもしれないと車を停めました。

 個人の敷地内でしたので、インターホンを押すも返事はなし。失礼ながらお邪魔してきました。

 標柱には昭和51年11月1日「村」指定史跡、説明板には「市」指定史跡とあります。

 さて、文献でも読んだことない史跡でしたので、まず説明板に目を通すと、「菊池氏の重臣達が戦に負け、ここに落ちのびで自害した(要約)」とあります。しかも、命日は11月11日と具体的です。
 何年かは不明ですが、11月前後にどこかで大きな戦があったのでしょうか。落ち延びたと言うことはおそらく負け戦、しかも南南西の菊池に帰っていないということは、本拠より北東での戦いかな、と年表に目を通したものの見つからず、とサイトのページには書きましたが、よくよく前半を見ると1185年、第六代菊池隆直公が義経の使い・緒方惟栄めと11月に戦ったとありました。壇ノ浦終わっていますが、それでも揉めていたんでしょうね(2/21加筆:やはり時期的に関係なさそうです)。
 とは言っても、もちろん本当にその時のものかは不明です。花岡氏は日田市に問い合わせたけど不明、地元の人もわからないとのことです。

 ただ、しっかりと残していてくれているのはありがたいことです。もしかしたら、いずれどの戦いのものか判明するかもしれませんし。

 なお、塚の横のお堂には

 このような観音様が安置されています。台の部分には建立した人々の名前がありますが、この名前も、周辺の家々の表札の名前も、あの菊池一族重臣の姓です。

 もう脱線しまくって、次回は鯛生と菊池一族の関係について。

【菊池七人塚】
日田市中津江村合瀬(柿ノ谷) Pなし

菊池武重公墓(東福寺歓喜院)

 全盛期の東福寺は三六坊が立ち並んでいたとされ、その中の一つに歓喜院なるものがあります。一説では、菊池武重公(以下、しげちー)は家督を弟・武士公に譲った後剃髪、歓喜居士と称しここに居住し、仏道の修行をしたとされますが、あの大変な時期に、とてもそんな余裕があったとは思えないのです。
 しかしそのしげちーの墓が歓喜院跡にあるので、本当にそんな余裕があったのでしょうか。

 城林城から撮影した写真の拡大ですが、畑の中にあるのが歓喜院跡のしげちー墓です。

 その背後の山の中腹にあるのが東福寺ですね。


 近づくとこのような感じで、畑のど真ん中です。これは桜の季節(2011年3月30日)に撮影したものです。


 こちらが墓碑。後に紹介しますが、みっくん、ともくん、菊池武吉公の墓と一緒ですね。なぜ一緒なのでしょうか。
 それは、湊川神社の武吉公墓(楠木正成墓とも言う)の図面を取り寄せて作成されたからなのです。
 江戸期に中村庄右衛門なる人物が藪の中に「石をこつみたる」墓を見つけました。詳しいことはわからないのですが、色々と調べた結果彼はこれがしげちーの墓だと確信し、このように荒れ果てたのを嘆いて、図面を取り寄せ1690年に私費で建立したとのことです。高山彦九郎も後に訪れたとか。

 今となっては中村庄右衛門さんになぜしげちーの墓だと確信するに至ったのか聞くことはできませんが、歓喜院にしげちーの墓があると言うことは、しげちーは歓喜院に隠居していたはず、と後付けで説明されるようになったのではないか、と勝手に推察します。

 次は菊池五山の残り、大琳寺について。

【文献】
『菊池風土記』
堤克彦『郷土史譚100話 菊池』

【菊池武重公墓】
菊池市亘 Pなし。東福寺からそのまま歩くか、車の往来が少ないので路上に駐車するか。

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城武東墓

 前回ご紹介した峯泉寺から北数百メートルに、城武東の墓があります。城武東は、城親冬の弟に当たります。ここにお墓があると言うことは、親冬が隈本に入った後も、城林城に残ったのでしょうか。

 上木庭地区の看板には「逆修の碑」とあり、さらに言えば城武東よりも藤原武東墓として知られているようです。

 峯泉寺もこの看板に記載されていますが、今見直すとそのすぐ近くに「ブタイテンサン(頭が良くなる神様)」なるものがありますね。行けば良かった。

 さてその「逆修の碑」、この看板では非常にわかりづらい所にあります。畑を通る道が急にこのようにきれいに舗装される風景を目印にすると良いでしょう。私も何度もこの周囲を車でウロウロとしてしまいました。

 写真にある小さな丘陵の向こう側に、看板とお墓があります。

 左の墓碑には「逆修城筑後守日千東永(?)藤原武東」とあり、「弘治四年八月吉□」と続きます。吉「日」でしょうか?逆修碑ということは、吉日に自らの墓碑を刻んだのでしょうか?右は記銘から察するに奥さんでしょう。

 城筑後守武東の名は、永正元年(1504年)の菊池政隆侍付に見つけることができます。弘治4年は1558年ですから、結構長生きしたのでしょうか。

 次も城氏のお墓について。

【文献】
『菊池氏史要略』
木庭實治『菊池木庭城と木庭一族』

【逆修の碑】
菊池市木庭(上木庭) 近くに駐車スペースあり

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養林山峯泉寺

 前回ご紹介した城林城の北東、同じ木庭に峯泉寺があります。


 鎮守神社なるものとセットになっています。

 この看板には、「神殿に10歳以上の女性は登るな」と書いてあります。なぜでしょうね。

 峯泉寺はこちら。

 何かの文献で城武顕が開いたと読んだ記憶があったのですが、『菊池風土記』では「城越前守」とあります。城氏は祖・隆経のみならず為重、重峯、親冬親賢と越前守を称していますが、隆経のことでしょうか。
 というのも、『菊池風土記』には城隆経のものと推定される城越前守の墓があると記されています。推定であるのは、墓に記銘がないからとのことです。そのお墓を探したのですが…

 この中のどれかなのでしょうか。文字は読み取れませんでした。

 次回も城氏の墓を。

【文献】
『菊池風土記』

【養林寺峯泉寺】
菊池市木庭(上木庭) 西南の空き地に駐車しました

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