全盛期の
東福寺は三六坊が立ち並んでいたとされ、その中の一つに歓喜院なるものがあります。一説では、菊池武重公(以下、しげちー)は家督を弟・武士公に譲った後剃髪、歓喜居士と称しここに居住し、仏道の修行をしたとされますが、あの大変な時期に、とてもそんな余裕があったとは思えないのです。
しかしそのしげちーの墓が歓喜院跡にあるので、本当にそんな余裕があったのでしょうか。
城林城から撮影した写真の拡大ですが、畑の中にあるのが歓喜院跡のしげちー墓です。
その背後の山の中腹にあるのが東福寺ですね。
近づくとこのような感じで、畑のど真ん中です。これは桜の季節(2011年3月30日)に撮影したものです。
こちらが墓碑。後に紹介しますが、みっくん、ともくん、菊池武吉公の墓と一緒ですね。なぜ一緒なのでしょうか。
それは、湊川神社の武吉公墓(楠木正成墓とも言う)の図面を取り寄せて作成されたからなのです。
江戸期に中村庄右衛門なる人物が藪の中に「石をこつみたる」墓を見つけました。詳しいことはわからないのですが、色々と調べた結果彼はこれがしげちーの墓だと確信し、このように荒れ果てたのを嘆いて、図面を取り寄せ1690年に私費で建立したとのことです。高山彦九郎も後に訪れたとか。
今となっては中村庄右衛門さんになぜしげちーの墓だと確信するに至ったのか聞くことはできませんが、歓喜院にしげちーの墓があると言うことは、しげちーは歓喜院に隠居していたはず、と後付けで説明されるようになったのではないか、と勝手に推察します。
次は菊池五山の残り、大琳寺について。
【文献】
『菊池風土記』
堤克彦『郷土史譚100話 菊池』
【菊池武重公墓】
菊池市亘 Pなし。東福寺からそのまま歩くか、車の往来が少ないので路上に駐車するか。
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