先日の
講演で紹介された
託麻原合戦史跡は次の二つです。
まずは水前寺野球場裏の駐車場にある碑。
車が邪魔で良い写真が撮れませんでした。
下にある二枚のレリーフがこちら。
一枚目が良成親王、二枚目が
菊池武朝と紹介されることがありますが、どう見ても二枚目が武朝公です。
親王は旗や甲冑に並び鷹の羽紋は使わないでしょう。
託麻原の戦いとは(以下、作成済みのページからほぼ引用)、九州宮方最後の勝利と言ってもいい戦いです。
本拠から出てこようとしない武朝を引っ張り出そうと、今川貞世は武朝をあえて無視し隈本城(詳細不明)へ入城、肥後南部に進出します。これを放置していては肥後南部の宮方に見放されると、武朝はあえて託麻原へと出陣。今川勢2万騎に対し、菊池勢はわずか3500騎だった(今川6万余騎、菊池2万余騎説あり)。天授四年(1378年)9月29日とのこと。
してやったりと攻撃を仕掛けた今川軍ですが、武朝が決死の突撃で奮戦。数に任せて圧しつつもうとするも、良成親王の突撃によって勢いを得た菊池勢は、さらに高瀬武国、詫磨武元コンビが奮戦し、今川仲秋勢を圧倒、仲秋勢の後退に連鎖反応を起こして全軍総崩れとなり、見事に勝利したとされます。ただし、本陣の了俊はびくともせず、結局は菊池を追われることになるのです。
さて、その戦死者の慰霊碑とされるものがこちらの
八万千部之碑です。
「サンパレス桜通り」の端っこに、説明板もなくひっそりと立ちます。
「戦死」者八万一千ということらしいのでしょうが、仮に6万騎vs2万騎説で、騎が騎馬でその従者がいるとしても、いくら何でも盛りすぎでしょう。ただ、それだけ激戦だったと言うことなのですかね。
さて、この八万千部の碑、なんと整地されて消滅していることを講演で知りました。花岡氏もサンパレスに問い合わせたところ、「丁重にお祓いをして撤去した」そうで、どこかに再建されたわけでもないようです。碑はどこに消えたのでしょう。なお、ニュースになっていないですし、整地している時に何か地中から出てきたわけでもなさそうです。
次回こそは高瀬や上京した武重公の話に戻りたいところですが、もう少し脱線して逆にちゃんと保存されている、講演で紹介された史跡について。
【参考文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』など
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