20年前の今日は、羽生善治さんが七冠を達成した日なのですが、それはすでに
三年前にブログに書いてしまっていました。この頃の更新頻度を取り戻したいものです。
さて、
高瀬について書くとか、
武重公が京に上って何をしていたか書くとか言っていましたが、講演に行ってきましたので予定変更です。
場所は八女市の「岩戸山歴史文化交流館」という、磐井の乱(おっと、「乱」は使ってはいけないのだった)をメインとした、完成して間もない施設です。13時半からの講演で、12:40に到着しましたが、既に結構な人出。それでも、最前列真ん中、スクリーン寄りのベストポジションを確保できました。講演開始時には満席、立ち見はもちろん、部屋の外で聴いている人もいるぐらいの盛況ぶりでした。
教育長の簡単な挨拶がそこそこおもしろく場が暖まったところで講演の開始です。
講師の花岡氏、どこかで見覚えがあると思ったら、
菊池武光シンポジウムの進行役の方でした。シンポジウムが正直不満だったので、今回はどうかなという所でした。
さて花岡氏、実はご専門は江戸時代、島原の乱(ご本人は島原一揆と表現)を研究しているということを冒頭正直に仰っていました。ではなぜ菊池一族についての講演を行っているかといういきさつを説明されていましたが、要はなんか知らんけど菊池一族についての関心が高まっていてそれに巻き込まれたから、のようです。今年は他に4つ(5つだったかも)講演の予定があるとか。
主題は、「菊池一族像」がどのように作り上げられたのか、ということでした。
まずはジャブとして
菊池七人塚、
筑後川の戦い(大保原の戦い)と
託麻原の戦いの簡単な紹介。戦傷者の数が仮に半分や1/10だったとしても、結構な激戦であったことをお話しになりました。託麻原の戦いの史跡は熊本市民でも知らないという話をされていましたが、筑後川の戦いはおろか、
足利尊氏が福岡に来たことも知らない福岡県民が圧倒的多数な訳ですから、そんなものだと思います。ただ、託麻原の戦いの史跡が一つ消滅したという事を知りましたので、次回にでも紹介しようと思います。
内容としては、オーソドックスに菊池氏の興りからです。花岡氏は藤原氏起源説は採っていませんでした。『
探求菊池一族』の資料的価値が専門家の間でどのように評価されているのかを最後の質問タイムで聞こうと当初思っていたものの止めてしまいまいしたが、終了後の雑談を盗み聞きしたところ、「福島の菊池一族」という言葉が聞こえましたので、書の事は知っているようです。それでもそれにあえて触れずに志方説(隆家の郎党説)を採ったと言うことは、「そういうこと」なのだろうと推察します。
まずは源氏物語の「大夫の監」、そして蒙古襲来絵詞での武房公、そして菊池武朝申状の紹介。武朝の記述に怪しい点があるにも拘わらず、武朝申状が『大日本史』で紹介されたのを機に、藤原氏起源説が一気に広まったこと説明されました。
その後は菊池氏が皇国史観でどのように評価されているかを説明されていました。『初等科國史』ではみっくんこと武光公(花岡氏は客観性を保つために「公」という言葉を意図的に使わないとのことです)が1章使って紹介されている一方で、『國史概説』では極めて扱いが小さいことを指摘されました。
このあたりは時間も迫っていて早口だったので誤解があるかもしれませんが、たしかに菊池一族は平泉澄氏からはもてはやされたものの、『國史概説』での採りあげられ方のように、実はそこまで菊池一族が皇国史観の片棒を担いだ訳ではないと。にも拘わらず、戦後の平泉澄氏や皇国史観に対する反動から、菊池一族までもが「右翼的なもの」としてレッテルを貼られ研究することすらタブーとなり、正当な評価を受けられないでいる。今後は皇国史観にとらわれることなく、同時に皇国史観アレルギーにもとらわれることなく、菊池一族を再評価する必要がある、ということだと思います。
特に新しい発見などはありませんでしたが、菊池一族を客観的に再評価すべきという箇所からは、氏の真摯な態度が伝わってきました(そのため花岡氏は「公」や「乱」という言葉を意図的に使わないようにしているそうです)。90分という短い時間では限界があったのでしょうし、おそらく花岡氏も話そうと思えばもっと話せたのだと思います。
さて、なぜ最後の質問タイムで質問をしなかったのか。他の人から何も質問がなければ、と思っていたのですが、質問タイムになって真っ先に手を挙げたご老人が一人。マイクが渡る前から熱くなって話し出したから何事かと思ったのですが、講演の中で紹介された人物が恩師(マルクス主義系学者で皇国史観を批判)だったようで、講演の中でその恩師の研究に疑問符を付けられたことで熱くなっていたようです。
花岡氏は別にその恩師自体にけちを付けたわけではなく、研究に対して疑問を呈しただけだったのですが、それが気にくわなかったようです。ただ学問とは研究成果をぶつけあい、場合によっては批判的に再構築していくものであるわけです(そのように花岡氏も回答していましたが)。それを「この先生はこういう人で立派だった(だから研究にも間違いないはずだ)」という個人的思い出を長々とぶつけられても困惑するしかありません。
花岡氏は菊池氏を「客観的に評価する必要がある」と講演されていましたが、このご老人は恩師の研究を客観的に評価することを拒否した訳で、花岡氏もさぞ内心苦笑したことだと思います(もちろん、完全な客観は困難であるわけですが、それでも自分が主観にとらわれていないか、客観を心がけているかを絶えず自問する必要があります)。そんなわけで、場がしらけてしまい質問する気が失せたわけでありました。
ということで、次回は消滅してしまった託麻原合戦史跡について。