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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   
カテゴリー「旅行記」の記事一覧

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小郡をふらふらと…大中臣神社の将軍藤と福童原古戦場

 雨が上がったので、小郡市へ将軍藤を見に行ってきました。

 2010年1月はこんな感じで寂しかったのですが…


 本日は

 わっさーと開花していました。写真も奮発してやや大きめ。

 懐良親王が筑後川の戦いで負った傷の快癒のお礼に奉納した藤とされます。将軍梅といい、かねたんもお花が好きですね。

 なお、小郡市の花は藤、マンホールも藤。


 ついでに近くの福童原古戦場に寄ってみました。
 菊池武光公、武政公が相次いで死去し、跡を継いだ菊池武朝公が敢えて高良山を降りて果敢に戦いを挑んだのが福童原の戦いです。武朝公はこの時12才ですので、実質的な総大将は武澄公の子・武安公だったのでしょう。戦いは肥前から今川了俊が駆けつけたこともあり、武家方の勝利に終わります。

 その福童原古戦場には説明板、石碑、千人塚があるのですが…
・before(2010年5月)


・after

 焼き討ちにあったようです。中央にはお地蔵さんが二体ありますが、かつてはなかったような?

 こちらが石碑と千人塚の碑。この小さい丘陵自体が千人塚なのでしょうか。


 その後はせっかくなので、大刀洗公園へ。ナイトシャッフル効果でごったがえしているかも?というのは杞憂でした。

 なお、戦いでは17度馬を乗り換え、兜も飛ばされたようですから、この銅像の馬と兜は…というのは野暮ですか。
 この銅像は機銃掃射の穴で有名ですが、台座の穴からはスズメが出入りをしています。「幸福な王子」みたいですね。

 なお、大刀洗公園には明治、大正と二度も「ここみっくんが太刀洗った場所ね!」という石碑を建てていますが、山隈にある「(伝)太刀洗之碑」はどうなんですかね。まぁ、ピンポイントで場所が特定されているわけではないでしょうから、どこも嘘ではないのでしょうが。
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名護屋城と陣屋めぐり

 またまた予定変更で、本日の名護屋城陣屋めぐりについてです。
 関西からやってきたお城仲間さんのリクエストで久々の陣屋めぐりでした。

 まずは後期石田三成陣屋。ここは初訪問。土塁が残るということでしたが、私有地で整備もされていないためよくわかりませんでした。
 唯一の手がかりは地元の人が立てた「こっちだよ」看板と…
 三成地蔵尊!!!そして何故か違い鷹の羽!!!
 何となくこの辺が陣屋だったという伝承が残っているという証左でしょうか。
 なおこの三成陣、名護屋城から南に結構離れています。教育委員会の方は「南方の重要拠点を任された」ということですが、とある三成を日本一愛する方によると、「あまりに秀吉に厳しいこと言うから遠ざけられた」とのことです。

 お次は前田利家陣屋を再訪。

 こちらは藪が刈られて見やすくなっています。

 そのまま名護屋城へ移動。桜が良い感じで散っています。


 矢穴にポキンと折れたまま残った金具。


 木下延俊陣は省略して、お次は生駒親正陣屋。これも再訪。

 やけに新しい石塁が残りますが、三成を日本一愛する方によると、元々は石田三成陣だったとのことです。

 北条氏盛陣屋を再訪しましたが、2008年12月30日に訪問したときは海沿いのこれかと思っていましたが…


 今回訪れたこちらの方がそれらしいような気がします。


ご近所の増田長盛陣屋も再訪。

 旗竿石らしきものは新発見。


 島津義弘陣屋は藪が減って見やすくなっていました。



 広さはもちろん、それをたくさんの石材を使用して区画化してるのに驚きます。

 でもって、直江兼続陣屋。こちらは天地人効果で整備されたと聞いていましたが、なるほど以前よりは見やすくなっています。
 こちらが2008年12月30日の写真。

 そしてこちらが本日撮影。

 藪はどこ行った!

 隅っこの石垣もご覧の通り見やすくなっています。


 お隣の上杉景勝陣屋はむしろ新しい畑で接近が難しくなっていました。ですので、2008年12月30日の写真を。

 しかし本当に遺構なのか地震がありません。

 本日は以上でした。この先もっと各陣屋が整備されるようになるといいですね。

忽那諸島など

 3月21,22日は所用で愛媛に行ってきました。
 旅行記と言っても、菊池とほぼ無関係なので備忘録のようなものです。

 今回はオフィシャルな用事での松山行で、3人連れということもあり、費用をけちって柳井港からのフェリー移動です。


 柳井港~松山までの間は、この旅唯一の菊池一族関連史跡とも言って良い忽那諸島が見えます。

 中島の神浦港遠景です。
 懐良親王は九州上陸の前に忽那義範に迎えられてここで3年(だっけ?)過ごします。タレント(?)の忽那なんとかさんはここ出身なのでしょうか。

 この日は松山城と湯築城に寄って終わりです。

 平日でしたが、桜が良い感じで人もたくさんいた松山城。


 桜もそこそこ、人もそこそこだった湯築城。
 ここは忽那氏など南朝方が攻め(落とした)た記録があるそうで、それが湯築城の記録上初登場とのことです。しんのーが関わっていたことにすれば、菊池一族関連史跡と言えないこともありません。

 2008年5月に松山大学で用事があり、ついでに両城を訪れたのですが、この時は前日飲み過ぎて100名城スタンプ帳を持ってくるのを忘れてしまっていました。約5年越しのスタンプゲットでした。

 宿は私のチョイスで羽生さんも棋聖戦を戦った宝荘ホテル。

 色紙がありました。


 松山市のマンホール。

 翌日は大洲城に寄ったのみ。

 さくらもちょうど良い感じでしたが、人はほとんどいませんでした。

 帰りは八幡浜港から別府経由で。

 大洲のマンホールと…


 八幡浜のマンホール。

多々良浜の戦いの前に阿蘇惟直公を追っかけて肥前の城めぐり

 前日に翌28日は快晴の天気予報を見て、宿願だった天山に登ると決意。3/2は足利尊氏の武家方vs菊池武敏ら宮方の「多々良浜の戦い」が行われた日。足利尊氏が九州に来たことを知らない人が多いですが、これに敗れていれば室町幕府はなかったという重要な戦いです。
 これに参戦した阿蘇惟直公と弟・惟成公は逃避行中肥前で自害or戦死しており、天山に惟直公のお墓が立っているのです。

 ついでに小城、神埼あたりの城めぐりのプランを立てます。
 プラン:淀姫神社→古湯城→天山→晴気城→千葉城→松崎城→横大路城→種福寺→勢福寺城→菩提寺城→仁比山城→鎮西山城→千栗城
 初訪問の城てんこもりなので、所要時間は計算できず、時間と体力と相談して適当なところで切り上げることに。わくわくしてその日は一睡もできませんでした(けど出かけました)。

 まず淀姫神社と古湯城。古湯城はつい最近王将戦第二局が行われた古湯温泉の城山にある城です。
 多々良浜で重傷を負った惟直公は、三瀬峠越えで神埼を抜けて退却しようとしていましたが、ここ古湯で傷を癒していたところを千葉胤貞の兵に発見されます。
 その後の兄弟については諸説あり、
・西に天川を遡って天山山中に入り、先行していた惟成公は行方しれず(田夫に捕らえられ行方しれず:『太平記』)。惟直公は最後の戦いを挑んだ後割腹し、胤貞に「阿蘇の噴煙が見える小杵山(天山?)に葬ってくれ」と遺言。
・戦いの最中兄弟で天山に登り、阿蘇の噴煙を望みながら共に自刃。
 などがあります。

 さて、城山麓の淀姫神社境内には「九郎堂」が立ちますが、これは阿蘇「九郎」惟成公が重傷を負ったものの実は生きており、古湯で傷を癒し定住し、九郎堂を建立したという説から来ているようです。

 さすがに生存説はないと思いますが、惟成公の名前が語り継がれているのは嬉しいですね。

 さて、淀姫神社北西の松城山(417m)にある古湯城は、その時惟成公の家臣・原隼人によって築かれたといいます。これが本当なら、何かあったときに古湯で傷を癒す惟直公を守るために急造されたのでしょう。
 遺構としては石積や腰曲輪が残るシンプルな造りのようです。



 「城山展望台」というだけあって、古湯温泉街を一望できます。

 なお、駐車場から山頂までの所要時間は5分でしたが、小山と侮ってストックなしに駆け足で登ったので、しょっぱなから結構なダメージを負ってしまいました。

 次はそこから西に車を走らせ、天山に向かいます。
 天山には阿蘇惟直公の墓が建ちますが、これは敵ながら心を打たれた千葉胤貞が遺言通り建てたという説と、住民達が哀れんで建てたという説があります。
 さて今回は下調べでは一番近いように見えた、北側の天川駐車場からのアクセスを試みました。足場は悪かったですが、約15分で頂上に着くことができました。
 360度視界が開けています。この日は天気がよく、南側には雲海が広がっていました。

 阿蘇惟直公のお墓から阿蘇山方面を見てみましたが、阿蘇山を見つけ出すことはできませんでした。

 普賢岳が辛うじて見えるぐらいですから、よほど空気が澄んでいるか、よほどの視力の持ち主でなければ難しそうです。
 しかし、今は車があるから良いものの、武装して、さらに死の追いかけっこをされながらここまで来たとしたら、かなり辛かったと思われます。

 続いて天山を南下し、小城町晴気の晴気城…はスルーして(武澄公が攻め落とした重要な城なのですが、あまり情報がないので)、例の千葉氏の千葉城へ。
 牛頭山に築かれた城で、現在展望台がある千葉公園とさらにその下の神社は出城で、最も高い地点が本城とされます。築城は文安2(1445)年ということですので、武澄公とは関係なさそうです。
 千葉公園から本城を目指しましたが、途中の藪の中に段曲輪と、所々に石積を発見。

 しかしこの石積は遺構とは関係がなさそうです。

 本城には蜜柑畑がありますが、これらは帯曲輪を活用して畑にしたのか、それとも畑のために整地されたのかよくわかりません。


 お次は神埼まで移動します。神埼の日の隈公園を含む山には、松崎城と横大路城があります。隣の西九州大学にはかつて週一度仕事に行っており、「いつでも行ける」と思っていたら結局行かずじまいだったのです。
 まず松崎城へ向かいます。最初は遊歩道がありますが、途中からは地図ロイドを頼りにやや藪を漕いで段曲輪に入り、それを伝っていくと主郭に到着します。


 主郭をぐるりと囲むように土塁が。
 

 続いて横大路城へ。いったん下山してからとも考えたのですが、地図ロイドを頼りにそのまま直行することにしました。
 すると何とか北の曲輪に到着したようで、堀切と出くわします。


 進むと再度別の堀切に出くわし、二つある広い曲輪のうち、北の曲輪へ到達しました。
 
 土塁が一部残存しています。

 縄張り図にある土橋はわからなかったものの、堀切を超えて南の曲輪へ到着します。そして南側を見下ろすと、空堀がぐるっと囲んでいるではありませんか。

 空堀をたどって歩くと、先ほど越えたと思った堀切とつながっていました。つまり、空堀が周囲を完全に囲っていたわけですね(土橋あったっけ…)。ということは、この防御具合から北ではなくこちらの南の曲輪が主郭だったのでしょうか。

 さて、この松崎、横大路両城には、菊池武安公が肥前制圧の際に兵を入れています。元々菊池方だったのか、それとも奪ったのかはちゃんと調べてみないと分かりません。

 (結果的に)最後に向かったのが勢福寺城です。少弐や龍造寺氏の城として有名なお城ですが、武安公が拠点とした仁比山城は、この勢福寺城ではないかという説もあるのです(ex.城郭大系)。
 その勢福寺城へは、近年登山道が整備されました。登山口の種福寺には江上家種の墓があります。


 お寺の方にお聞きすると、山頂までは30分ぐらいではないかとのことで歩き出すこと約10分、堀切に出くわします。


 その後も小さめな堀切を超えていくと、「展望岩」なるものがあり、ここからは先ほどの松尾城や長崎道を見下ろすことができます。ということは、いつの間にか城郭大系の「三の丸」は通り過ぎてしまったのか。


 さらに進むと土塁に囲まれた平坦地に到着。どうやら二の丸のようです。


 そして井戸。内壁は岩で固められています。このあたりが本丸でしょうか。


 そして大きめの土塁があります。土塁上から見下ろすとその下には虎口があり、虎口を守るためのものでしょうか。


 先には巨岩が露出した堀切。


 説明板や道が整備されているのはここまででしたが、さらに尾根を北西に進んでいくと複数堀切に出くわし、さらに土塁が残り、腰曲輪らしきものを備えた曲輪がありました。


 その先も少し進んでみましたが、北側は傾斜が急で引き返すことにしました。
 なお、この次は菩提寺城があったとも、実は同じくここが仁比山城なのではないかと言われる土器山に行く予定でしたが、勢福寺城から見た土器山を見てあきらめました。

 あれにこれから登るのは無理だ…。
 松崎城や横大路城がよく見える場所だし、もうここ勢福寺城が仁比山城だったことにしれくれればいいのに。築城時期も近いんだし。

 なお、寝不足の上に食事は天山で食べたおにぎり一個でした…。

文献 『日本城郭大系17』 『菊池市史』 天本孝志『九州南北朝戦乱』 荒木栄司『九州太平記』『菊池一族の興亡』 中武安正『菊池氏を中心とせる米良史』

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