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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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大智降誕地

 閑話休題で肥前家と肥前の話に戻ります。
 南北朝期(特に前期)の菊池一族は、大智抜きに語ることはできません。
 そして肥前家は大智とは非常に深い関係にあります。

 大智は第13代菊池武重公に菊池に招かれたとされるのが有力です。そして武重公、第14代菊池武士公の時代には菊池一族の精神的支柱となり結束を強め、政治的な指針をも与えた人物です。

 その大智が生まれたのは(肥前ではありませんが)現在の宇城市不知火町で、現地はちょっとした公園になっています。

 アクセスは北と南から可能なようで、教育委員会からは北を教えられましたが、わからなかったので南からアクセスしました。

 胞衣塚らしきものがあり


 そして複数石碑が建ちます。
 こちらが江戸期に建てられたもので


 昭和初期に昭和天皇御大典を記念して建てられたのがこちら。


 さらに登ると、昭和36年に建てられた記念碑と、記念碑尽くしです。

  大智は加賀の祇陀寺を去るときに、「日本に仏教が栄えたらこの杉も茂るよ!」と言って杉の杖を立てたらしく、それがなんと今現在天然記念物になっているらしいのですが(あれ?どこかで聞いた話だな…)、その杉の枝を苗木に平成4年にこの地に植えられたのが写真背後の杉とのことです。

 次回からはその大智が何故肥前家と深く関わりを持つようになったのかをつらつらと。

【文献】
徳富蘇峰「菊池氏の勤王と大智禅師」『純忠菊池公を忍ぶ』
阿蘇品保夫『菊池一族』
『菊池市史』

【大智降誕地】
宇城市不知火町長崎 Pなし。わずかなスペースに駐められるかどうか。


より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後) を表示
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落選

 菊池観光協会写真コンテストに見事落選しました!

 ストックの写真はそれはもう膨大な量なのですが、十八外城や地味な神社の写真が受賞することはないでしょうから除外、すると残りは他の誰かも撮影していそうなものが多く、力及ばずでした。
 密かにあるかもと思っていたのがお気に入りの逆光写真だったのですが、武光公像を題材とした写真ではオーソドックス過ぎたでしょうか。


 ヘリコプターからの城下町空撮写真も、密かにもしかしたらと思ったのですが、冷静に『菊池市の文化財』に使われている空撮写真と比べると、我ながら酷かったですね。


 残りの写真が何だったかは秘密です…。

 空撮と言えば、今年もさくら祭りでヘリが飛ぶみたいですね。先日の気球事故なんか見ているとヘリも怖くなってしまいますが、今年も乗ろうと思っています。

肥前勢福寺城

 先日訪れたお城の中から、肥前勢福寺城をピックアップしてみます。

 城郭大系によると、勢福寺城の築城年代は明確ではないが1353年頃、一色直氏により築城かとされています。
 興味深いのは、城郭大系の一文で、仁比山城の事を「勢福寺城と考えられる」としているところです。仁比山城は菊池武安公築城とされるお城ですが、あまり詳細がわかっていません。いっそのこと両城が同じであれば、訪れる労力が減って楽なのですがね(笑)。

 さてその勢福寺城も情報が少ないお城だったのですが、最近登山道が整備されたためこれから訪城記録がどんどん他のサイトにもアップされていくことかと思います。
 登山道は種福寺にあります。

 種福寺には江上家種のお墓があり、「種」は家種からとっているようです。

 登山道は裏側にありますが、わからない場合は素直にお寺の方にお聞きすると教えてくれました。場所的にちゃんとお断りしてから登るのが良さそうな気もします。


 お寺の方は小さい頃はこの山を遊び場にしていたようで、山頂までは30分ぐらいだろうと教えてくれました。
 道はこの通り虎ロープや階段が設置されており、山頂まで迷うことはなさそうです。


 登り始めて10分ほど、城郭大系の「三の丸」はまだかなと思っていたら、大きめの堀切に出くわしました。

 親切に「堀切」の看板もあります。

 さらに3分するともう一つ小さめの堀切です。


 またさらに3分ほどで視界が開けた場所に出ます。すると「展望岩」の看板があり、なるほど良い眺めです。

 左のこぶが松崎城で、右に下に見えるのが長崎道です。平野も一望できます。
 長崎道が見下ろせると言うことは、おそらくいつの間にか三の丸は通り過ぎているようです。

 そこからさらに10分もかからない内に、ようやく広い平地に到達します。ここが城郭大系で言う二の丸のようです。

 特に西側に土塁が続きます。



 さらに進むと虎ロープで囲まれた井戸があります。

 内壁は岩で固められていますので、雨水などを貯めていたのでしょう。

 そのすぐ先が本丸で、ここには気合いの入った土塁があります。

 土塁の上には三角点が。

 気合いが入った土塁だと思ったら、その先には虎口がありました。

  虎口の先から土塁を見上げるとこうなります。

 気合いを入れたのには理由があったのですね。

 そのすぐ先には堀切があります。

 自然石が良い感じですね。

 さて、説明板等があるのはここまでのようでしたが、せっかくですのでもう少し先に行ってみることにしました。
 進むこと約5分。こんな所に登り石垣!?

  ではなく、自然石でした。しかし、ここは自然地形を利用した堀切になっているように素人には見えました。


 その先にも似たような地形がもう一つ(たしかこの写真だったような…)。

 人工ではないかもしれませんが、堀切として活用されていてもおかしくないという印象を受けました。

 さて、その先にようやく平地が現れます。主郭から尾根沿いに北西に進んだ地点です。

 ここにはこの城で初めて腰曲輪らしきものをみつけることができました。

 
 この郭は周囲を土塁でぐるりと囲まれているのが印象的でした。


 その先は傾斜が厳しく引き返そうかと思いましたが、下に石積らしきものが見えたので少しだけ進みましたが、自然石でした。ということで今回はここまでにしました。

 次回は詳細な縄張図を持参したいところです。

 ところで、ゲーム「信長の野望 天下創世」に勢福寺城が登場しますが、ゲームではクネクネとしたクリークに囲まれた平城のような作りになっています。おそらく、平野部のクリークを意識してデザインしたのでしょうね。


より大きな地図で 菊池一族おっかけマップ(肥後以外の九州) を表示

今日は何の日-多々良浜の戦い

 677年前(延元元年:1336年)の今日、現在の福岡の多々良川河口付近の多々良浜で、足利尊氏率いる武家方と菊池武敏公率いる宮方との戦いが起こりました。
 「え?足利尊氏って福岡に来たの?」と聞かれることがあるぐらい、歴史教科書ではスルーされてしまいがちですが、これは南北朝期がナイーブな話題だからでしょうか。

 ともあれ、大雑把な経緯はこうです。建武の新政による武士の不満は鬱積し、それを酌む形で足利尊氏が離反、後醍醐天皇の建武の新政は崩壊します。尊氏は後醍醐天皇を敵に回すのではなく、あくまで君側の奸である新田義貞を討つとの名目でしたが、後醍醐天皇は尊氏討伐令がを出します。この時第13代菊池武重公は後醍醐天皇の呼びかけに応じ上京し、菊池千本槍の逸話を残す活躍を見せることになります。
 さて尊氏は中央の戦いで敗れ、九州へ逃れます。この時、赤松円心のアドバイスで光厳上皇の院宣をゲットします。

 九州では足利尊氏が来るという知らせを受け、宮方がこれを迎え撃つことになります。宮方の主力となったのは菊池勢ですが、当主の武重公が上京して不在のため、弟の九郎武敏公を総大将に菊池・阿蘇勢を中心に形成されます。いつも不思議に思うのですが、この時武澄公は何をしていたのでしょうね。
 宮方は激戦を繰り返しながら北上し、有智山城では少弐貞経を自害させ、博多合戦での父・武時公の仇討ちに成功します。
 そして多々良川を挟んで両軍は対峙することになるのですが、現在の東区の流通センターのあたりだったとされ、現地には「多々良潟の碑」が立ちます。


 足利勢は川を挟んで北に陣を敷き、尊氏は現在水道タンクが複数ある丘陵を本陣としたようで、現在も「陣の越」と呼ばれています。この要所に陣を置けたのは尊氏にとっては大きかったようです。

  現地には看板が立っています。

 さて、両軍の数は『太平記』では宮方3万vs武家方3百、『梅松論』では6万vs1千とありますが、当主でもない武敏公がこれだけの数を率いられるはずはなく、実際はほぼ同じぐらいだったのを、苦戦したので菊池勢は大軍だったということにしてかっこつけたのだろうという説があります。ただ、尊氏が開戦前に絶望したと言うぐらいですから、宮方の兵力が多かったのではないでしょうか。
 ともあれ、宮方も連戦の疲れが蓄積している上に、士気が高いのは菊池・阿蘇勢など一部でした。しかも高所に陣をとっている足利勢は風上から攻撃をしてきたため、苦戦を強いられます。強風で前進できず、矢が風の乗って飛んできて不利に陥りましたが、武敏公が陣頭指揮を執って盛り返し、尊氏の弟・直義は死を覚悟しますが、その奮戦に発憤した尊氏や足利勢も決死の覚悟で戦います。そして宮方だった松浦党らが後方で武家方に寝返ったため、激闘3時間、宮方は敗北してしまうのです。これを「多々良浜の戦い」と言います。「川」ではなく「浜」であるのは、当時は埋め立てがされておらず、現在と海岸線など地形が違ったのでしょうね。
 その戦死者を弔う「兜塚」が現在も流通センター付近に残っています。流通センターの建設の際に、地中から何か発掘されるのではないかと期待されたそうですが、何も出てこなかったようです。


 その後、武敏公は追撃を受けながら何とか菊池に逃れますが、阿蘇惟直・惟成公は天山で自刃したというのは前回ご紹介したとおりです。
 勝利した尊氏は九州の軍勢をまとめ東上し、新田・楠木勢など宮方と戦い勝利することになります。その後すんなり尊氏が安定した政権を樹立できたわけではありませんが、この戦いは宮方からすれば尊氏を討ち取る千載一遇のチャンスを逃したことになったわけです。

 尊氏の評価は後醍醐天皇に背いたと言うことでずっと酷かったわけですが、再評価されてきています。少なくとも、戦は強く、人に優しく、物欲がない人間としては好人物だったようです。冷酷になりきれず人が良すぎたために、戦乱を長引かせる要因を作ったとも言われますが。

 しかしここですんなり尊氏が討ち取られていたら、その後の戦乱で菊池一族が名前を残すこともなかったかもしれないわけですね。

多々良浜の戦いの前に阿蘇惟直公を追っかけて肥前の城めぐり

 前日に翌28日は快晴の天気予報を見て、宿願だった天山に登ると決意。3/2は足利尊氏の武家方vs菊池武敏ら宮方の「多々良浜の戦い」が行われた日。足利尊氏が九州に来たことを知らない人が多いですが、これに敗れていれば室町幕府はなかったという重要な戦いです。
 これに参戦した阿蘇惟直公と弟・惟成公は逃避行中肥前で自害or戦死しており、天山に惟直公のお墓が立っているのです。

 ついでに小城、神埼あたりの城めぐりのプランを立てます。
 プラン:淀姫神社→古湯城→天山→晴気城→千葉城→松崎城→横大路城→種福寺→勢福寺城→菩提寺城→仁比山城→鎮西山城→千栗城
 初訪問の城てんこもりなので、所要時間は計算できず、時間と体力と相談して適当なところで切り上げることに。わくわくしてその日は一睡もできませんでした(けど出かけました)。

 まず淀姫神社と古湯城。古湯城はつい最近王将戦第二局が行われた古湯温泉の城山にある城です。
 多々良浜で重傷を負った惟直公は、三瀬峠越えで神埼を抜けて退却しようとしていましたが、ここ古湯で傷を癒していたところを千葉胤貞の兵に発見されます。
 その後の兄弟については諸説あり、
・西に天川を遡って天山山中に入り、先行していた惟成公は行方しれず(田夫に捕らえられ行方しれず:『太平記』)。惟直公は最後の戦いを挑んだ後割腹し、胤貞に「阿蘇の噴煙が見える小杵山(天山?)に葬ってくれ」と遺言。
・戦いの最中兄弟で天山に登り、阿蘇の噴煙を望みながら共に自刃。
 などがあります。

 さて、城山麓の淀姫神社境内には「九郎堂」が立ちますが、これは阿蘇「九郎」惟成公が重傷を負ったものの実は生きており、古湯で傷を癒し定住し、九郎堂を建立したという説から来ているようです。

 さすがに生存説はないと思いますが、惟成公の名前が語り継がれているのは嬉しいですね。

 さて、淀姫神社北西の松城山(417m)にある古湯城は、その時惟成公の家臣・原隼人によって築かれたといいます。これが本当なら、何かあったときに古湯で傷を癒す惟直公を守るために急造されたのでしょう。
 遺構としては石積や腰曲輪が残るシンプルな造りのようです。



 「城山展望台」というだけあって、古湯温泉街を一望できます。

 なお、駐車場から山頂までの所要時間は5分でしたが、小山と侮ってストックなしに駆け足で登ったので、しょっぱなから結構なダメージを負ってしまいました。

 次はそこから西に車を走らせ、天山に向かいます。
 天山には阿蘇惟直公の墓が建ちますが、これは敵ながら心を打たれた千葉胤貞が遺言通り建てたという説と、住民達が哀れんで建てたという説があります。
 さて今回は下調べでは一番近いように見えた、北側の天川駐車場からのアクセスを試みました。足場は悪かったですが、約15分で頂上に着くことができました。
 360度視界が開けています。この日は天気がよく、南側には雲海が広がっていました。

 阿蘇惟直公のお墓から阿蘇山方面を見てみましたが、阿蘇山を見つけ出すことはできませんでした。

 普賢岳が辛うじて見えるぐらいですから、よほど空気が澄んでいるか、よほどの視力の持ち主でなければ難しそうです。
 しかし、今は車があるから良いものの、武装して、さらに死の追いかけっこをされながらここまで来たとしたら、かなり辛かったと思われます。

 続いて天山を南下し、小城町晴気の晴気城…はスルーして(武澄公が攻め落とした重要な城なのですが、あまり情報がないので)、例の千葉氏の千葉城へ。
 牛頭山に築かれた城で、現在展望台がある千葉公園とさらにその下の神社は出城で、最も高い地点が本城とされます。築城は文安2(1445)年ということですので、武澄公とは関係なさそうです。
 千葉公園から本城を目指しましたが、途中の藪の中に段曲輪と、所々に石積を発見。

 しかしこの石積は遺構とは関係がなさそうです。

 本城には蜜柑畑がありますが、これらは帯曲輪を活用して畑にしたのか、それとも畑のために整地されたのかよくわかりません。


 お次は神埼まで移動します。神埼の日の隈公園を含む山には、松崎城と横大路城があります。隣の西九州大学にはかつて週一度仕事に行っており、「いつでも行ける」と思っていたら結局行かずじまいだったのです。
 まず松崎城へ向かいます。最初は遊歩道がありますが、途中からは地図ロイドを頼りにやや藪を漕いで段曲輪に入り、それを伝っていくと主郭に到着します。


 主郭をぐるりと囲むように土塁が。
 

 続いて横大路城へ。いったん下山してからとも考えたのですが、地図ロイドを頼りにそのまま直行することにしました。
 すると何とか北の曲輪に到着したようで、堀切と出くわします。


 進むと再度別の堀切に出くわし、二つある広い曲輪のうち、北の曲輪へ到達しました。
 
 土塁が一部残存しています。

 縄張り図にある土橋はわからなかったものの、堀切を超えて南の曲輪へ到着します。そして南側を見下ろすと、空堀がぐるっと囲んでいるではありませんか。

 空堀をたどって歩くと、先ほど越えたと思った堀切とつながっていました。つまり、空堀が周囲を完全に囲っていたわけですね(土橋あったっけ…)。ということは、この防御具合から北ではなくこちらの南の曲輪が主郭だったのでしょうか。

 さて、この松崎、横大路両城には、菊池武安公が肥前制圧の際に兵を入れています。元々菊池方だったのか、それとも奪ったのかはちゃんと調べてみないと分かりません。

 (結果的に)最後に向かったのが勢福寺城です。少弐や龍造寺氏の城として有名なお城ですが、武安公が拠点とした仁比山城は、この勢福寺城ではないかという説もあるのです(ex.城郭大系)。
 その勢福寺城へは、近年登山道が整備されました。登山口の種福寺には江上家種の墓があります。


 お寺の方にお聞きすると、山頂までは30分ぐらいではないかとのことで歩き出すこと約10分、堀切に出くわします。


 その後も小さめな堀切を超えていくと、「展望岩」なるものがあり、ここからは先ほどの松尾城や長崎道を見下ろすことができます。ということは、いつの間にか城郭大系の「三の丸」は通り過ぎてしまったのか。


 さらに進むと土塁に囲まれた平坦地に到着。どうやら二の丸のようです。


 そして井戸。内壁は岩で固められています。このあたりが本丸でしょうか。


 そして大きめの土塁があります。土塁上から見下ろすとその下には虎口があり、虎口を守るためのものでしょうか。


 先には巨岩が露出した堀切。


 説明板や道が整備されているのはここまででしたが、さらに尾根を北西に進んでいくと複数堀切に出くわし、さらに土塁が残り、腰曲輪らしきものを備えた曲輪がありました。


 その先も少し進んでみましたが、北側は傾斜が急で引き返すことにしました。
 なお、この次は菩提寺城があったとも、実は同じくここが仁比山城なのではないかと言われる土器山に行く予定でしたが、勢福寺城から見た土器山を見てあきらめました。

 あれにこれから登るのは無理だ…。
 松崎城や横大路城がよく見える場所だし、もうここ勢福寺城が仁比山城だったことにしれくれればいいのに。築城時期も近いんだし。

 なお、寝不足の上に食事は天山で食べたおにぎり一個でした…。

文献 『日本城郭大系17』 『菊池市史』 天本孝志『九州南北朝戦乱』 荒木栄司『九州太平記』『菊池一族の興亡』 中武安正『菊池氏を中心とせる米良史』

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