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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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広陵山徳栄寺

 前回ご紹介した城親賢の父・親冬とはどのような人物だったのでしょうか。
 当主である菊池義武との関係がうまくいっていなかったようですが、二階崩れの変を機に義武が隈本城にて大友からの独立を画策すると、大友宗麟は菊池義武を討伐します。
 隈本城は鹿子木氏の居城でしたが、大友宗麟による菊池義武討伐後は、城親冬が入ることになり、その後佐々成政が肥後国主となるまで親冬-親賢-久基の三代、隈本城は城氏の居城となります。

 親冬はその後も大友氏に協力し、大津山城攻めや龍造寺との戦いに参加しています。龍造寺と停戦して毛利にあたることになった時は、使者として難しい交渉を有利にまとめています。
 その後、今山の戦いでも大友方に従軍しますが、大友方は大敗します。

(大友親貞の墓と奥に今山古戦場の碑)
 親冬は隈部親永と共に龍造寺に降りますが、なぜか丁重に隈本に帰されます。それが後に隈部氏が龍造寺に協力するきっかけになったとか。子の親賢は島津につきましたがね。

 さて、親冬はいつの間にかとっとと親賢に家督を譲ったそうです。戦乱に嫌気がさしたらしく、その後は京都の仏照寺に入り、了西、行西と称して修行します。なんとその間、石山本願寺の門徒として織田信長と戦い、その時の功で石山本願寺から仏像を与えられたとか(戦乱に嫌気がさしたのではなかったのか、なんてことは言ってはいけません)。

 後に肥後に戻り霜野でその時の仏像を本尊に徳栄寺を開いたとも、隠居したが後に加藤清正の命で徳栄寺を建立したともされます。お寺の伝承では、清正が熊本城の建材を本堂建築のために提供したということです。

 今お寺がある場所は正確には霜野ではありませんが、細かいことは言いっこなしでしょうか。

 親冬の墓はこの徳栄寺にあります。


 菊池氏がパッとしない戦国はこれぐらいにして、話を南北朝期ぐらいに戻したいと思います。ということで、次は過去の城氏の居城について。

【文献】
荒木栄司『肥後古城物語』

【広陵山徳栄寺】
山鹿市鹿央町広 Pあり

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霊峰山岳林寺

 前回ご紹介した出田武房の父・城親賢について今回はご紹介します。
 出田氏と城氏の関係は深く、出田氏は途中から城氏が嗣いでいます。まず親賢の叔父・政冬が出田重綱の養子となり、次に親賢の弟・親基が政冬の子・重基の養子となり、さらに親賢の次男・武房が親基の養子となり…、と結構面倒くさいです。

 城親賢は大友氏が耳川で敗戦すると大友氏から距離を取り始め、隈本支配を安定化させるために御船の甲斐宗運と白川旦過瀬で戦います。甲斐宗運も元は菊池一族ですから、一族同士の戦いだったわけです。その後は島津・龍造寺の勢力に挟まれ、舵取りに苦労している最中に死去したとされます。

 彼の墓は岳林寺にあります。

 立派なお寺ですが、元々は石神山の東南にあったそうです。現在地は石神山の北西ですから、山の正反対に来たわけですね。移転の理由は、延宝二年、藩士の屋敷地として提供するためだとか。

 お墓は白い標柱つきです。

 城親賢は植木市の生みの親であるため、岳林寺墓前祭も行われています。植木市を始めた理由は、まだ親賢が隈本城にいたとき、「子息の慰み」のために、「何ぞ珍しき」ことをやろうと思い立ったのがきっかけだとか。

 さて、この墓には「出田某敬建」とあり、建立者が出田氏であることが伝わっています。しかしなぜ「某」なんてことになっているのかというと、前述の移転が関係しているそうです。
 親賢の長男・久基は筑後で死去しているため、次男・出田武房かその子・親房あたりがおそらく建立したものの、武房の死去で出田氏との関係も薄れ、移転の際に傷んだ墓を再建はしたものの、誰が建立したのかは正確に伝わっていなかったものと考えられます。

 次は城親賢の父・親冬について。

【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』

【霊峰山岳林寺】
熊本市西区島崎5丁目 専用だったか記憶は定かではないが、目の前にPあり

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広徳山流長院

 文明17年、御船か馬門原で戦死した出田秀信には三人の子がおり、重綱が跡を嗣ぎました。しかし秀信戦死以後の出田氏が勢力を失った関係でしょうか、重綱の次を嗣いだ政冬は、城氏からやってきています。それ以降も城氏からちょくちょく人がやってきては跡を嗣いでいます。

 さて、その中の一人に、出田武房という人物がいます。武房という非常に素晴らしい名前をもらっていますが、城親賢の子で、まず豊臣秀吉、そして加藤清正に仕えました。加藤家改易後は細川家に仕え、やがて死去します。彼の墓があるのが流長院です。



 1600年、肥前から来た伝志麟的によって開かれ、当初は広大な寺地だったようですが、空襲で焼けたり坪井川の水害で被害を受けたりで、その時記録が失われてしまうなど、現在は小規模なつくりになっています。

 では出田武房の墓はどれか、ということなのですが、これがわかりませんでした。お寺の人に聞けば良かったのですが、不在でした。
 五輪塔が数基並んでいましたが、このどれかなのでしょうか。

 なお、この日は夏の雨上がりで、墓に近づく気になれませんでした。次回訪れることがあれば接近してみようと思います。

 さて出田武房ですが、慶長伏見地震の時に、伏見城の秀吉のもとに駆けつけた清正と行動を共にしており、後からやってきた石田三成を一喝したという記録をどこかで目にした記憶があるのですが、それが思い出せません…。

 次は出田武房の父・城親賢のお墓について。

【文献】
『菊池氏史要略』
『熊本の神社と寺院』

【広徳山流長院】
熊本市中央区壺川1丁目4-23 Pはあったけど専用駐車場かは不明

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馬門原の戦い

 菊池では古池城を本拠とし、隈本城の前身にあたる肥後千葉城を築城した出田秀信は、文明17年戦死します。
 出田系図には御船(御船陣原という書籍も)にてとあり、菊池市史には馬門原の戦い(幕の平の戦い)にてとあります(他の文献では先鋒を務めたと具体的な記述も)。御船と馬門原とではそこそこ距離がありますが、小競り合いも前後にあったでしょうから、一連の戦いの過程で戦死したということなのでしょうか。

 一連の戦いとは何か、となるのですが、話は馬門原の戦いから遡ること1年、文明16年4月の赤熊の戦いに触れなければなりません。
 赤熊とは現在の熊本市南区富合町木原あたりです。第21代菊池重朝公と、その叔父に当たる宇土為光公が戦ったのですが、この戦いは宇土為光が菊池を乗っ取ろうと起こした戦いだとされてきました。
 しかし阿蘇品保夫氏の研究では、為光が戦をふっかけたにしては戦いの場所が宇土氏の支配領域にあまりに近すぎること、菊池氏はたしかに斜陽であったもののまだ宇土氏が戦をふっかけて勝てるほど落ちぶれていないなどから、むしろ重朝方から攻め寄せたものと指摘されています。
 宇土氏領内の郡浦をめぐる宇土氏と阿蘇・菊池氏の争いが背景にあったなど、詳細は阿蘇品氏の『菊池一族』をご参照いただくとして、私もこれに賛同します。ともかく赤熊の戦いは菊池方の勝利に終わり、為光は亡命し、相良氏を頼ることになりますが、ここに火種が残ったのでした。

 馬門原(幕の平)は「益城郡矢部」にあります。現在の山門町杉木に石柱がたちます。

 周辺はどんなところかというと…

 森に囲まれた平地で、現在は畑になっています。戦いが起こった場所ですから、てっきり小川でも流れているのかと思っていました。他の文献でみた写真とも風景が違いますので、そもそもこの石柱が正しいという保証もありませんけどね。

 文明17年12月、戦いは為光が亡命した相良氏と阿蘇惟乗連合軍がまず1つ。もう一方は菊池重朝と阿蘇惟歳・惟家連合軍で、阿蘇家の内紛も絡んでいたわけです。
 戦いは菊池方は「宗たる面々」数十人が討ち取られたそうですから、この中に出田秀信も含まれていたのかも知れません。結局は相良・惟乗方の勝利に終わり、宇土為光は宇土に復帰し、相良氏は八代、豊福を得ることになります。ただし、八代と豊福は、後に第22代菊池能運公によって奪還されます。

 なお、私が作成した馬門原の戦いページとWikipediaの内容が酷似していますが、作ったのは私が先です。参考文献も違います。常々学生さんにはWikipediaは信用するなと行っていますが、私のサイトごときと意図的かどうか内容が酷似しているぐらいですから、やはり、といったところでしょうか。

 次回は出田氏の話に戻り、出田武房という人物について。

【文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』
『熊本の古戦場』
『熊本の城』

【馬門原古戦場】
上益城郡山都町杉木 Pなしも駐車可能

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肥後千葉城

 菊池十八外城の1つ、古池城は代々菊池一族出田氏の居城でした。その出田氏が築城したお城が熊本市内にあります。

 NHK熊本あたり。バス停近くににちっぽけな城趾碑があり、千葉城の名前が見えます。千葉城は出田秀信の築城とされ、藤崎八旛宮文書には「出田山城守」との記述もみられます。
 現在ここは千葉城町と言われますが、城郭大系も指摘するとおり、城の遺構はほぼないと言えるでしょう。

 東側には坪井川が流れ、水堀の役目を果たしていたのでしょう。

 …と思いきや、この坪井川は昭和初期までは違う流れだったそうで、参考にならないと城郭大系にあります。現在の熊大附属幼稚園の向こう側を川が流れていたそうで、むしろその辺りまが居住区だったのではないかとのことです。
 県立美術館分館が二の丸とされ、その西側の茶臼山に挟まれて道路となっている所に、かつては玉川が流れていたそうです。

 一画にはこのようなものがありますが、私はこの御仁に余り興味がありません。
 

 出田系図によると、出田秀信は文明17年、御船(御船陣原)で戦死したとされます。文明17年と言えば馬門原の戦いですが、菊池市史には馬門原の戦いで戦死とあります。
 出田氏は秀信の子・重綱以降は衰退し、城政冬が出田氏を継ぐことになります。その後鹿子木寂心が隈本城を築き、千葉城は廃城となったと考えられます。

 後に肥後国人一揆で佐々成政が肥後田中城を攻めている隙に、菊池一族の菊池武宗が隈本城を攻めました。しかし、慌てて帰ってきた佐々成政のために攻め落とせず、自刃したのがこの千葉城あたりだったとされます。

 次回はその隈本城か、馬門原の戦いか、出田氏の子孫について。

【文献】
『菊池氏史要略』
『新熊本市史』
『城郭大系』
『熊本の城』
『菊池市史』

【肥後千葉城】
熊本市千葉城町 Pなし

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