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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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服部英雄『蒙古襲来』をつまみ読み

 昨年末出版された服部英雄著『蒙古襲来』を、適当な章からゆっくりと読んでいます。
 通説にとらわれることなく、蒙古襲来絵詞を軸に蒙古襲来の実像を明らかにするというもので、非常に読み応えがあります。『八幡愚童訓』に対する批判は辛辣です。
 読んでいると、以前にも「通説」に疑義を挟んだ人はいたものの、戦前の雰囲気で消し飛んでしまったものもあったようです。
 興味深かったところを、文永の役を中心に、備忘録的に箇条書きしてみます。

○文永の役
・蒙古勢の将兵は約5600人。
・対馬では激戦は行われていない。
・日本側は1日で水城まで撤退なんてしていないし、蒙古勢の攻略目標である大宰府警固所(現・福岡城あたり)を死守していた。
・上陸戦は夜襲(10月19日夜)、その後も夜戦、夜襲の繰り返しで、「我こそは…」なんて名乗る戦いは行われていない。
・少弐景資が劉復亨を射たというのは副将が先頭にいるわけがなくウソ。また、「流れ矢」は常套句で、本営まで日本軍が踏み込んだ上に射撃して傷を負わせたと考えられる。
・10月20日夜は日本軍が海上で夜戦を仕掛けているから、蒙古勢が台風で1日で壊滅・撤退したはずがない。そもそもそんな史料はどこにもない。
・10月24日にも合戦の記録があり、蒙古勢は大宰府警固所の掌握に失敗している。冬になると日本海の行き来が難しく、撤退・補給が困難になるため推定27日以降月末にかけて撤退。

○菊池一族や竹崎季長について
・我らが菊池武房公がまず戦って撃退する手柄を挙げているから、その後の竹崎季長の「先懸」「一番」は大した功ではなく、海東郷地頭職が与えられたのはこの時ではない。
シンポジウムでも言っていたが、武房は相当な財力だった。
・澁谷龍氏は『探求菊池一族』にて、菊池惣領の家紋は絵詞に見られる並び鷹の羽と一つ鷹の羽の両方としていたが、服部氏は「惣領は並び鷹の羽、庶子は一つ鷹の羽と季長はちゃんと区別させている。えらい!」と明言。
・季長の出身は玉名郡の竹崎。
・三井資長は季長の従者扱いを受けているが、実際は逆。
・季長は相当なわがまま野郎。

 弘安の役についてはまたの機会に。
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女山神籠石から柳川経由で直鳥城

 2/1、前日のお礼ではないですが、黒田慶一さんを女山神籠石へご案内。女山神籠石は思い出せないぐらい昔にお城仲間さんとご一緒して以来です。その時は、柳川を案内する途中、たまたまナビに載っていたから寄ったというノリで、そこまで神籠石に興味がなかったのは覚えています。

 まず長谷水門。

 民家を通り抜けていく必要があり、一声かけると案内をしていただけました。前の小川には崩れてきたであろう石も転がっています。
 民家の方には資料をいただいたのと、代々伝わっている甲冑や壺等も拝見させてもらいました。

 次は横尾谷水門。

 前に並べられている石も、崩れた石のようにみえなくもありません。
 なお、ここは鳥居の奥に駐車するのではなく、手前の道路に駐めるのがよいでしょう。

 そして、前回訪問時に訪れた列石へ。

 当時は神籠石のことをよくわかっておらず、この列石に拍子抜けをしたのを覚えています(今は違います)。

 その後は柳川の御花で昼食をとり、せっかく柳川にきたので天叟寺の高橋紹運墓を久々にお詣り。

 時間が余っていたので、そのまま直鳥城へ行っておしまいです。

 ※この写真は2012年9月撮影

徳川家康本陣など

 1/31、倭城でもお世話になった黒田慶一さんにひっついて名護屋へ行き、名護屋城博物館の市川さんと長﨑さんに、発掘調査中の徳川家康本陣を案内していただきました。

 ポイントは2つです(たぶん)。まず

 有名なこの石垣、表面のはつり仕上げがとても文禄・慶長期にみえないとのこと。
 下記も同じだったかな。

 上部の細かい石は、後世積み上げられたもので、下にはもっと石垣が埋もれていると考えられます。

 そして現在発掘中なのが、主郭、北郭の間のこちら。

 階段が発掘されています。
 ただ、市川さんにも二つ不可解なことがあるとのこと。
 まずこれも石の表面が文禄・慶長期のものではないこと。そして、そもそも階段の位置そのものがおかしいこと。
 黒田さんと色々とお話しをされていましたが、結局結論はどうだったのかきれいさっぱり忘れてしまいました。
 なお、埋もれている食器類は、残念ながら新しいものばかりのようです。

 黒田長政陣と前田利家陣をご案内いただき、福岡に戻りました。

 こちらがタイムリーな長政陣。


 こちらは利家陣。


 そういえば、官兵衛ゆかりの城という幟がたち、訪問客も増えたらしいですが、そもそも官兵衛が縄張りを行ったという一次資料はなく(黒田マンセーの黒田家譜ぐらい?)、困惑しているそうです。
 縄張りを命じられたのは小西行長・加藤清正・黒田長政という一次資料も、「長政」は黒田ではなく浅野説もあるらしいですね。

 なお、予算がついたので今後発掘が進められるのは、家康陣以外では島津義弘陣と、あともう一つはどこだったかな…。

掛幕城

 菊池十八外城を続けます。掛幕城は柏氏代々の居城で、阿蘇・日田方面へ備えた城とされます。
 「城床」という地名と、堀切らしきものがありますが、城郭大系は「城らしくない城」と言い切っており、砦跡だろうとしています。『菊池市の文化財』もそれに倣っている感じです。


 これが「城床」で、城趾碑が埋もれています。草が刈られていれば、下のように簡単に見つかりますが…。

 城郭大系には眺望が遠くまで可能とありましたが、現在はご覧の通り藪で眺望は期待できません。「城床」は城郭大系にあるように、加工の痕跡は確かに見つかりませんでした。


 これが「城床」に入る直前に出くわす堀切で、「城の堀」と現地の人は呼ぶそうです。現地の人と言っても、周囲に人の住んでいる気配はありませんが…。
 これが「城床」をぐるりと120m走っているのですが、無駄に長い気がします。城へのアクセスは2通りほど確認できましたが、その一つはこの堀切を道として使用します。

【文献】
『菊池風土記』
『城郭大系』
『菊池市の文化財』

【掛幕城】
菊池市原 北側の鉄塔付近に駐車可能。

市成城

 久しく更新していないので、何を書いたものかと考えたのですが、何となく菊池十八外城について続けて行きたいと思います。これまた何となく反時計回りに取りあげておりますので、今回は市成城です。
 市成城は、場所がわかってしまえばアクセスの良い菊池十八外城の中で、おそらく最も体力を消費する城ではないかと思います(それでもゆっくり歩けば、たいしたことはありません)。
 菊池渓谷中央駐車場の奥に、説明板と登城口があり、そこから山道を歩くこと10分程でしょうか、それまで城の雰囲気を全く感じることがないのに、いきなり平坦地にたどり着きます。

 藪の中には城趾碑が埋もれています。 

 と、これだけです。特に遺構は見当たらず、『菊池市の文化財』『城郭大系』にもそのように説明されています。一応平坦地はありますので、豊後方面に備える小さな番所みたいなものだったのでしょうか。草を刈った写真を見ると、見晴らしはそこそこ良いようですので。

 ともかく、そこそこ体力を消費する割には見所は少なく、菊池スキーか、お城をスタンプラリー感覚で回る人にしかお勧めできないかと思います。

【文献】
『菊池風土記』
『菊池市の文化財』
『城郭大系』

【市成城】
菊池市原 菊池渓谷中央駐車場の奥に駐車。
※地図が新しくなってから、地図をうまく貼り付けられません…。これももっと拡大した地図を貼りたかったのですが。

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