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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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鯛生と菊池

 鯛生金山を訪れた際に、前回ご紹介した菊池七人塚に出くわしました。
 その時は雨天でしたが、もう鯛生金山に来ることもないだろうから…、と車を停めたのでした。しかし、鯛生金山のトイレに財布を忘れてきてしまっため、翌日再度訪れることになりました(財布は親切なバスの運転手さんが届けてくれていました)。
 ならばせっかくなので、近辺の菊池一族に関係する史跡に行くことにしたのですが、そもそも「鯛生」という地名そのものが、菊池一族と関係があるのです(以下、サイトに掲載している内容とほぼ重複します)。
 1334~1339年ごろ、ここの豪族だった田島舎人という人物が、菊池氏から嫁を迎えることになったそうです。誰の娘さんかはわかりませんが、第13代菊池武重公の頃ですね。
 なお、田島氏の子孫は今でもこの地に住んでいるようで、立派なお屋敷があります。


 さて、推定武重公は、田島さんに何か珍しいものを贈ろう考えたらしく、生きた雌雄の鯛を引き出物にしたそうなのです。しかしこの地に着くと、鯛が躍り上がり別々の岩石に付着してしまいました。この雌雄が互いに向き合った岩を鯛生岩と呼ぶようになった、というのが「鯛生」の由来だそうです。

 その2つの岩ですが、現在は一つしか残っていません。

 これが「雄岩」だったと思います(※金山の説明書きでは雌岩になっていた気がしますが、後のエピソードのように、たしかにこの敷地のご老人はこちらを「雄岩」と言っていた記憶があります)。敷地のご老人によると、雌岩もかつては少し離れた所にあったそうです。

 このあたりに雌岩はあり、その上に木が被さっていたそうです。その木が嵐で倒れたときに、何も知らない若い人たちが動かしてしまい、どれかわからなくなってしまったそうです。
 ところで、ご老人にからは、ご先祖から聞いたという別の由来も教えていただくことができました。記憶が曖昧ですが…。

 信濃の豪族がこの地に落ち延びてきて腹を切った。その人物は鯛の木彫りを抱えており、その自刃の地が後に「雄」岩となった。ここまでは何となく記憶に自信があります。そして、後にこの地にその妻がやってきます。妻は夫がここで死んだことを知り…
a.自らも自害し、それを悼んで地域の人々が祠を建てた場所が雌岩。
b.夫を弔うために祠を開いた場所が雌岩。
c.そもそも夫の消息がわからず祠を開いて生活した場所が雌岩。
 三つのどれだったか、それともこれらがミックスされていたのか、記憶が曖昧です…。

 ということで、次回もさらに脱線を続けて、付近の菊池氏関連史跡をもう一つ。

【鯛生岩】
日田市中津江村合瀬 雄岩は個人の敷地内です
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菊池七人塚

 八万千部の碑のように消滅してしまう史跡がある一方で、しっかりと護られている史跡もあります。
 先日の講演会で紹介された、菊池七人塚も同様です。

 花岡氏同様、私も菊池から鯛生金山へと車を走らせている途中に看板を発見しました。
 雨が降っていましたが、鯛生金山にもう行くことはないだろうし(といいつつ、実は翌日再度訪れる羽目になった)、スルーすると後々公開するかもしれないと車を停めました。

 個人の敷地内でしたので、インターホンを押すも返事はなし。失礼ながらお邪魔してきました。

 標柱には昭和51年11月1日「村」指定史跡、説明板には「市」指定史跡とあります。

 さて、文献でも読んだことない史跡でしたので、まず説明板に目を通すと、「菊池氏の重臣達が戦に負け、ここに落ちのびで自害した(要約)」とあります。しかも、命日は11月11日と具体的です。
 何年かは不明ですが、11月前後にどこかで大きな戦があったのでしょうか。落ち延びたと言うことはおそらく負け戦、しかも南南西の菊池に帰っていないということは、本拠より北東での戦いかな、と年表に目を通したものの見つからず、とサイトのページには書きましたが、よくよく前半を見ると1185年、第六代菊池隆直公が義経の使い・緒方惟栄めと11月に戦ったとありました。壇ノ浦終わっていますが、それでも揉めていたんでしょうね(2/21加筆:やはり時期的に関係なさそうです)。
 とは言っても、もちろん本当にその時のものかは不明です。花岡氏は日田市に問い合わせたけど不明、地元の人もわからないとのことです。

 ただ、しっかりと残していてくれているのはありがたいことです。もしかしたら、いずれどの戦いのものか判明するかもしれませんし。

 なお、塚の横のお堂には

 このような観音様が安置されています。台の部分には建立した人々の名前がありますが、この名前も、周辺の家々の表札の名前も、あの菊池一族重臣の姓です。

 もう脱線しまくって、次回は鯛生と菊池一族の関係について。

【菊池七人塚】
日田市中津江村合瀬(柿ノ谷) Pなし

託麻原の戦いの史跡が消滅

 先日の講演で紹介された託麻原合戦史跡は次の二つです。

 まずは水前寺野球場裏の駐車場にある碑。

 車が邪魔で良い写真が撮れませんでした。

 下にある二枚のレリーフがこちら。

 一枚目が良成親王、二枚目が菊池武朝と紹介されることがありますが、どう見ても二枚目が武朝公です。

 親王は旗や甲冑に並び鷹の羽紋は使わないでしょう。

 託麻原の戦いとは(以下、作成済みのページからほぼ引用)、九州宮方最後の勝利と言ってもいい戦いです。
 本拠から出てこようとしない武朝を引っ張り出そうと、今川貞世は武朝をあえて無視し隈本城(詳細不明)へ入城、肥後南部に進出します。これを放置していては肥後南部の宮方に見放されると、武朝はあえて託麻原へと出陣。今川勢2万騎に対し、菊池勢はわずか3500騎だった(今川6万余騎、菊池2万余騎説あり)。天授四年(1378年)9月29日とのこと。
 してやったりと攻撃を仕掛けた今川軍ですが、武朝が決死の突撃で奮戦。数に任せて圧しつつもうとするも、良成親王の突撃によって勢いを得た菊池勢は、さらに高瀬武国、詫磨武元コンビが奮戦し、今川仲秋勢を圧倒、仲秋勢の後退に連鎖反応を起こして全軍総崩れとなり、見事に勝利したとされます。ただし、本陣の了俊はびくともせず、結局は菊池を追われることになるのです。

 さて、その戦死者の慰霊碑とされるものがこちらの八万千部之碑です。

 「サンパレス桜通り」の端っこに、説明板もなくひっそりと立ちます。
 「戦死」者八万一千ということらしいのでしょうが、仮に6万騎vs2万騎説で、騎が騎馬でその従者がいるとしても、いくら何でも盛りすぎでしょう。ただ、それだけ激戦だったと言うことなのですかね。

 さて、この八万千部の碑、なんと整地されて消滅していることを講演で知りました。花岡氏もサンパレスに問い合わせたところ、「丁重にお祓いをして撤去した」そうで、どこかに再建されたわけでもないようです。碑はどこに消えたのでしょう。なお、ニュースになっていないですし、整地している時に何か地中から出てきたわけでもなさそうです。

 次回こそは高瀬や上京した武重公の話に戻りたいところですが、もう少し脱線して逆にちゃんと保存されている、講演で紹介された史跡について。

【参考文献】
阿蘇品保夫『菊池一族』など

花岡興史氏講演「南北朝と菊池一族―近代化における受容と認識」

 20年前の今日は、羽生善治さんが七冠を達成した日なのですが、それはすでに三年前にブログに書いてしまっていました。この頃の更新頻度を取り戻したいものです。

 さて、高瀬について書くとか、武重公が京に上って何をしていたか書くとか言っていましたが、講演に行ってきましたので予定変更です。

 場所は八女市の「岩戸山歴史文化交流館」という、磐井の乱(おっと、「乱」は使ってはいけないのだった)をメインとした、完成して間もない施設です。13時半からの講演で、12:40に到着しましたが、既に結構な人出。それでも、最前列真ん中、スクリーン寄りのベストポジションを確保できました。講演開始時には満席、立ち見はもちろん、部屋の外で聴いている人もいるぐらいの盛況ぶりでした。

 教育長の簡単な挨拶がそこそこおもしろく場が暖まったところで講演の開始です。 
 講師の花岡氏、どこかで見覚えがあると思ったら、菊池武光シンポジウムの進行役の方でした。シンポジウムが正直不満だったので、今回はどうかなという所でした。
 さて花岡氏、実はご専門は江戸時代、島原の乱(ご本人は島原一揆と表現)を研究しているということを冒頭正直に仰っていました。ではなぜ菊池一族についての講演を行っているかといういきさつを説明されていましたが、要はなんか知らんけど菊池一族についての関心が高まっていてそれに巻き込まれたから、のようです。今年は他に4つ(5つだったかも)講演の予定があるとか。

 主題は、「菊池一族像」がどのように作り上げられたのか、ということでした。
 まずはジャブとして菊池七人塚筑後川の戦い(大保原の戦い)と託麻原の戦いの簡単な紹介。戦傷者の数が仮に半分や1/10だったとしても、結構な激戦であったことをお話しになりました。託麻原の戦いの史跡は熊本市民でも知らないという話をされていましたが、筑後川の戦いはおろか、足利尊氏が福岡に来たことも知らない福岡県民が圧倒的多数な訳ですから、そんなものだと思います。ただ、託麻原の戦いの史跡が一つ消滅したという事を知りましたので、次回にでも紹介しようと思います。

 内容としては、オーソドックスに菊池氏の興りからです。花岡氏は藤原氏起源説は採っていませんでした。『探求菊池一族』の資料的価値が専門家の間でどのように評価されているのかを最後の質問タイムで聞こうと当初思っていたものの止めてしまいまいしたが、終了後の雑談を盗み聞きしたところ、「福島の菊池一族」という言葉が聞こえましたので、書の事は知っているようです。それでもそれにあえて触れずに志方説(隆家の郎党説)を採ったと言うことは、「そういうこと」なのだろうと推察します。

 まずは源氏物語の「大夫の監」、そして蒙古襲来絵詞での武房公、そして菊池武朝申状の紹介。武朝の記述に怪しい点があるにも拘わらず、武朝申状が『大日本史』で紹介されたのを機に、藤原氏起源説が一気に広まったこと説明されました。

 その後は菊池氏が皇国史観でどのように評価されているかを説明されていました。『初等科國史』ではみっくんこと武光公(花岡氏は客観性を保つために「公」という言葉を意図的に使わないとのことです)が1章使って紹介されている一方で、『國史概説』では極めて扱いが小さいことを指摘されました。
 このあたりは時間も迫っていて早口だったので誤解があるかもしれませんが、たしかに菊池一族は平泉澄氏からはもてはやされたものの、『國史概説』での採りあげられ方のように、実はそこまで菊池一族が皇国史観の片棒を担いだ訳ではないと。にも拘わらず、戦後の平泉澄氏や皇国史観に対する反動から、菊池一族までもが「右翼的なもの」としてレッテルを貼られ研究することすらタブーとなり、正当な評価を受けられないでいる。今後は皇国史観にとらわれることなく、同時に皇国史観アレルギーにもとらわれることなく、菊池一族を再評価する必要がある、ということだと思います。

 特に新しい発見などはありませんでしたが、菊池一族を客観的に再評価すべきという箇所からは、氏の真摯な態度が伝わってきました(そのため花岡氏は「公」や「乱」という言葉を意図的に使わないようにしているそうです)。90分という短い時間では限界があったのでしょうし、おそらく花岡氏も話そうと思えばもっと話せたのだと思います。

 さて、なぜ最後の質問タイムで質問をしなかったのか。他の人から何も質問がなければ、と思っていたのですが、質問タイムになって真っ先に手を挙げたご老人が一人。マイクが渡る前から熱くなって話し出したから何事かと思ったのですが、講演の中で紹介された人物が恩師(マルクス主義系学者で皇国史観を批判)だったようで、講演の中でその恩師の研究に疑問符を付けられたことで熱くなっていたようです。
 花岡氏は別にその恩師自体にけちを付けたわけではなく、研究に対して疑問を呈しただけだったのですが、それが気にくわなかったようです。ただ学問とは研究成果をぶつけあい、場合によっては批判的に再構築していくものであるわけです(そのように花岡氏も回答していましたが)。それを「この先生はこういう人で立派だった(だから研究にも間違いないはずだ)」という個人的思い出を長々とぶつけられても困惑するしかありません。
 花岡氏は菊池氏を「客観的に評価する必要がある」と講演されていましたが、このご老人は恩師の研究を客観的に評価することを拒否した訳で、花岡氏もさぞ内心苦笑したことだと思います(もちろん、完全な客観は困難であるわけですが、それでも自分が主観にとらわれていないか、客観を心がけているかを絶えず自問する必要があります)。そんなわけで、場がしらけてしまい質問する気が失せたわけでありました。

 ということで、次回は消滅してしまった託麻原合戦史跡について。

湊川神社

 前回、玉名の高瀬氏関連史跡を紹介すると言いながら、なぜ湊川神社かと思われるかもしれませんが、決して気が変わったわけではありません。流れ上、脱線してしまうかもしれませんが…。

 高瀬津は菊池川河川交通と有明海内海交通の結節点となる港でした。朝鮮や中国との交易拠点でもあり、後に高瀬津の権益を巡って、一族内でもめ事が起こっています。

 高瀬津をいつ頃から菊池一族が支配していたのか、正確にはよくわかりませんが、建武二年の菊池武吉寄進状が初見と言われています。親父の貢献から得た恩賞をきっかけに、勢力を拡大したと考えられています。
 ここで登場する菊池武吉とはどういう人物だったのか。菊池七郎と呼ばれるということは、推定武重公の弟です。しかし、肥後でどのような活動をしていたのかは定かではなく、彼の足跡として明確に残っているのは、湊川の戦いぐらいのようです。

 湊川の戦いの詳細は紹介しませんが、武重公が九州を留守にしていた時に筑前で多々良浜の戦いが起き、勝利した足利尊氏が九州の軍勢を引き連れて戻ってきたため生じた戦いです。武吉公は兄・武重公と上洛し、新田勢と行動を共にしていました。楠木勢のことを心配した武重公が、武吉公を楠木正成の元に派遣したところ、運悪く皆そろって自害する事になったそうです。皆を自害させて一人だけ帰るわけにもいくまいと、武吉公は律儀に一緒に自害しました。

 その自害した場所が、湊川神社の一角にあります。

 よく読み取れませんが、きっと「史跡 菊池武吉戦没地」とあるような気がします。え?モザイク?いや気のせいです。

 神社の方に声をかければ、案内してもらえます。自刃したのは「あのあたり」と指さしされたのがこちらです。


 そんなこともあり、湊川神社には武吉公が祀られ、墓もあります。

 楠木正成の墓でもありますが、細かいことは良いでしょう。

 武重公が上洛して何をしていたのか、気になるところだと思いますので、武重公の足跡を次回はたどってみることにします。やはり脱線しました。

 あ、社殿はこちらです。
 

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