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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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武朝vs良成親王(五條氏)!?―特別展「八女の名宝」

 九州歴史資料館で開催の、特別展「八女の名宝」へ行きました。
 目的は後醍醐天皇が懐良親王に持たせたという「金烏の御旗」。普段は年に一度公開されるのみです(もともとは、日干しのために年に一度外に出していたのが慣習化したとのこと)。
 その他、後醍醐天皇の綸旨や、懐良親王、良成親王、戦国期の大友家の面々の書状等が展示されていましたが、もちろん写真撮影できるわけもなく、図録を購入して帰りました。
 
 良い展示でしたが(もっと感動するかと思っていましたが…)、五條家文書の中で、二点興味深い事がありました。

 一つは、良成親王が「うとうとしい」を連発していること。
 前後の文脈から察するに、現代語に訳すと、「だりぃ」「つかれた」「もうどうでもいい」なんでしょうか。結構お疲れのようです。

 二つめは、良成親王のいる大杣に攻め寄せてきた「道徹」を、五條頼治が撃退した効を良成親王が賞した元中12(1395)年の感状があったのですが、この「道徹」が「大友氏か、裏切った武朝のこと」と展示では説明されていたのです。
 図録の方には、はっきり「菊池武朝撃退の戦功」「北朝へ寝返った道徹(武朝)」とありました。今までいろんな二次三次史料を読んできましたが、武朝が親王の御在所を攻めたというのは初耳でした。
 今川了俊が「手強かった菊池は使える」と武朝の菊池復帰を後押ししたという説はあり、復帰に幕府の意向があったのはおそらくその通りなのでしょうが、かといって武朝が親王をあっさり攻めたというのは驚きです。
 武朝の子・兼朝がひたすら反幕府だったように、武朝は幕府に認められて復帰しながらも、復帰した後はすぐに手のひらを返したか、少なくとも面従腹背していたと思っていました。なお、兼朝の法名が「透関道徹」ではありますが、このときまだ12歳です(武朝「俺なんか12で家督継いで、了俊と戦ったんだぞ。お前も親王と戦ってこい」とでも言って送り出したんでしょうか)。
 武朝や菊池一族のイメージに大きく関係しそうなだけに、気になるところです。
 その後はすぐ近くの小郡市埋蔵文化財調査センターの大原合戦屏風をチラ見し、

 筑後川の「杜の渡し」へ。
 杜の渡しは、大保原の戦い(大原合戦、筑後川の戦い)を前に、菊池方が渡河した地点とも言われます。
 背後の土手に上がっても…

 ここからではよくわかりませんので、東の橋からみると、言われてみれば何となく渡河しやすそうかなぁ、と思います。
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風浪宮の石灯籠が一基崩壊

 二年前に紹介した風浪宮を再訪してきました。久々の更新です。

 この日は午前9時前後。


 本殿は蒲池鑑盛寄進。

 ここには、正平十年に「菊池城主」が寄進した石灯籠がありました。
 立派な石灯籠なので、久留米藩主有馬氏が江戸屋敷に移送しようとしたところ、遠江灘で船が難破してなくしてしまいました。
 お詫びに代わりの石灯籠を奉納したということですので、現在の石灯籠の「菊池城主」もその時に刻まれたのでしょう。この時代ですので、推定みっくんこと菊池武光さんでしょうか。
 
○以前


○現在

 囲いの柵が立派になっているな、と思ってみていたら…
 中では一基崩壊しているやんけぇ!

 熊本地震の時でしょうか。当時の大川市長は補欠選挙出馬で頭がいっぱいで、この国宝級(当社比)の石灯籠の修復に手が回らなかったのでしょうかね。

 久々に更新したので、これを機に更新癖をつけたいところです。

特設ページ『菊池一族 夢爛漫』オープン(外部サイト)

http://www.city.kikuchi.lg.jp/kankou/q/list/184.html

 菊池市が菊池一族に特化したページを開設しました!
 これからもっとコンテンツが充実すると思いますので、是非ご覧になって下さい。

 あ、私のサイトもセコセコ更新しておりますので、たまにはこちらも…。
http://www.kikuchi-family.jp/

みやま市の菊池一族関連史跡をふらふらと

 久々の更新です。
 桜の菊池以来、ほぼ菊池一族と無縁の生活でしたが(熊本市内にはたびたびでかけています)、今日は仕事の合間にみやま市の菊池一族関連史跡を駆け足で訪問してきました。旅行記と言うほどのものではありません。
 なお、スマホでの撮影のため、写真の画質は今ひとつです。

 最初に向かったのは「赤星地蔵」。
 菊池一族である赤星統家が龍造寺隆信に人質として差し出していた2名の子供が、処刑された場所にある地蔵尊です。
 隈府城主だった統家は、14歳の嫡子・新七郎を人質に出していました。隆信は統家を柳川に呼び出しますが、蒲池氏を呼び出して暗殺していた隆信を簡単に信じる訳にもいかず、統家は渋っていました。
 隆信は使者を差し向けますが、たまたま統家は留守。そこで使者は統家の8歳の娘をさらって帰ります。居留守と思った隆信は激怒、新七郎と一緒に二人をここで磔にしたそうです。


 新七郎は立ち会いの武士に隈府城の方角を聞き、「わが面西にな向けぞ赤星の親に後を見せじと思へば」と詠んだとか。
 激怒した統家は、やがて沖田畷で恨みを晴らすことになります。

 次に訪問したのが「竹井城」です。
 第14代菊池武士公の時代、筑後溝口城を失った菊池方は、兄の木野武茂が大城藤次と共に山門郡竹井城に入ります。筑後進出、さらに北への進出拠点としたようです。
 竹井城は別名萱津城とも竹井萱津城とも呼ばれます。資料によっては、武茂が入った竹井城を、久留米市にある草野氏の竹井城としているものもありますが、溝口城を失った後という状況を考えれば、そんな北にいきなり進出できるはずもなく、誤りでしょう。
 ここは現在「竹飯」で、「竹井村」と「飯尾村」が合併してできています。また、ここからすぐ西にある早鷹宮は「海津(かいづ)」です。「萱津(かやづ)」との関連が想定されます。
 さてその竹井城ですが、実は正確な場所はわかっていないようです。個人のサイト頼りですので、誤りの可能性もありますが、そこでは竹海小学校(28年3月廃校)としています。

 ただ、確かに南は飯江川が流れ、小学校は少し高い場所にありますので、もしかしたらそうなのかもしれません。
 2ヶ月超の戦いの末、竹井城を失ってしまった武士は、さらに一時期本城まで失ったため、家督を退く決意をします(ただし、「しかるべき人物に」と言っており、武光に、とは言っていない)。

 そのまま西北の阿蘇神社(早鷹宮)へ。多々良浜の戦いから撤退する恵良惟澄が、大木貞久に世話になったお礼に勧請したとされます。

 立花家の小野和泉との関係を説明する看板が新しくなっていましたが、内容は同じでした。

 すぐ近くに、田尻氏の板碑の案内板があったので立ち寄ってみました。

 推定田尻親種の妻の供養塔で、子・鑑種らが建てたとされます。

 その後は仕事に復帰する途中に江浦城の前を通過。

 この裏にある淀姫神社が、立花氏ゆかりというのをかなり昔に何かの本で読んだ記憶があるので向かったのですが、駐車スペースがなかったのでとりあえず今回はパス。

 そして仕事帰りには、恵良惟澄が大木貞久にお世話になった大木城の城址碑に寄り道しておしまいです。

 スマホのカメラだと色々と限界がありますね…。

2016年 菊池の桜

 桜の季節になりました。桜と言えば、昨年も菊池に花見に行きましたが生憎の曇天。それ以降は7月末に訪れたのみ。
 せめて桜の季節ぐらいはどうにか菊池へということで、週間天気予報をこまめにチェックし、晴天はここしかないと4/1,2に菊池に行ってきました。
 1日は午後から晴れの予報も、現地は曇りでした。この日はあまりうろちょろせず、素直に菊池市民広場と菊池神社のみで終了です。

※せっかくの桜ですので、今回は写真をクリックすると、少し大きい写真が表示されるようにしました。
※各史跡の詳細はリンク先にて。
菊池神社の参道
 金曜日の昼ということもあってか、ブルーシートを広げた花見客はいませんでした。

大円寺から枝分けされた墨染めの桜

 菊池武士公ゆかりですね。

・摂社城山神社

 この邪魔なテントはいかんだろう…。どなたが祀られていると心得る。

・神社からみた市民広場

 やはり、これに勝るふるさと創生一億円の有効利用はありませんね(たぶん)。

菊池武光像の軍配には…。
 お客さんがいました。

 夕食後には夜の市民広場へ。
 夜の武光公像もまた見事です。撮影の腕が上がったのか、今回の写真は壁紙によさそう。

 翌2日は晴れの予報なので、早起きして史跡巡りと5時過ぎに起床したのですが、外は真っ白。6時になっても晴れません。

・宿前の菊池能運公墓


 では高地へと言うことで、隈部氏館に車を走らせました。なかなかモヤが晴れませんでしたが、さすがに隈部氏館は雲海の上でした。
 宿に戻り朝食をとってもまだ菊池市街地はモヤの中。フロントの方曰く、「今日は特にひどい」とのこと。しかしチェックアウト時にようやく太陽が出てきました。

・今度は晴天の能運公墓
 ということで、ゆっくり晴+桜の史跡巡りの開始です。

 まずは宿背後の正観寺

 境内の菊池武光公墓

 午前中は順光です。

 再度菊池神社の参道へ。

 晴天だと桜も映えます。

 晴天の土曜日ということもあり、車も人も混雑してきたので、人のいないであろう城林城(木庭城)へ向かいました。言わずと知れた菊池十八外城の一つですね。
 主郭の桜は散り始めでした。
 そこからの眺めもそこそこで、東福寺(後方桜付近)と武重公墓(前方大きな木の下)が見えます。

 手前の武重公墓は、東福寺歓喜院跡です。

 城林城の内堀とされるのがこちら。


 その菊池武重公墓へ。桜の武重公墓は何度か訪れたことがありますが、日陰になっていない桜とのセットは今回が初めてです。


 他に「菊池一族と桜」で、相良寺を思い出しました。相良寺への道中にも桜が咲く菊鹿町の鷹取城染土城ではない方)があるので、まずは鷹取城へ。

 桜は結構散っていたので、堀切の写真をば。

 そして相良寺へ。武光公と懐良親王はもちろん、菊池隆直公とも縁のあるお寺です。


 そしてあっさりと帰途につきました。
 戦利品はこちら。
 

 桜の写真がそこそこ撮れたので、ホームページの写真もいずれそれに入れ替えようと思います。

 次回は…脱線しまくっているので、もはや何を書くかわかりません。

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