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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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玉名大神宮

 熊本出張の帰りに、玉名市歴史博物館の企画展「福島の菊池一族」に行ってきました。以前にも紹介しました、『探求菊池一族』のベースになった資料の展示です。

 その感想はさておき、玉名と言えば菊池一族関連史跡の宝庫です。今回は電車移動でしたので、バスと徒歩で少しだけ史跡巡りをしてきました。ということで、これを機にしばらくは玉名の史跡をご紹介していこうと思います。全部紹介していると、今年中には終わらない気もしますが…。

 今回は訪れていませんが、やはりまずは、実は全国の菊池一族が祀られている神社の中で、ある意味最もおいしい神社である、玉名大神宮です。何せ、初代則隆公から12代武時公までが祀られているわけですから、これ以上の贅沢はありません。菊池市の菊池神社城山神社のセットも強力ですが、両神社は顔ぶれは豪華ですが当主だけだと8人、こちらは人数は少ないですが当主12人です。

 説明板はこちら。少し大きめに。

 「玉依姫」が則隆公の娘ということになっています。


 玉依姫の墓碑もありますが、あまり大切にされている感じがしません。


 さて、12人の当主は、二つの末社に祀られています。まずは西末社。

 三代経頼四代経宗五代経直六代隆直九代隆泰十代武房十一代時隆十二代武時公がギュッと詰まっています。


東末社がこちら。

 玉依姫、初代則隆七代隆定二代経隆八代能隆公。こちらは少しゆったりしていますか。ただ、なぜ1,2,飛んで7,8をセレクトしているかはわかりません。


 両末社のおかげで、すっかり影が薄い本社。おそらく主神である…、誰だっけ?


 これで菊池24代の半分にお詣りできるわけですから、やはりお得ですね。

 次回は、玉名と言えばやはり高瀬氏なので、高瀬氏関連の史跡を予定しています。
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700年前の1316年

 あけましておめでとうございます。
 今年は昨年よりは、ブログの更新回数を増やしたいところです。

 さて、「今日は何の日」ではありませんが、「○○年前のこの年」に菊池一族で何かイベントはなかったかと年表を眺めておりましたところ、700年前の1316年、第12代菊池武時公が日輪寺を再興しておりました。

 イベントとしてはやや地味ですが、せっかくなので日輪寺について書こうと思ったところ、何となくブログをチェックすると、2013年3月に既に書いておりました。

 ということで、日輪寺についてはこちら(ブログ記事)をご覧下さい。

 写真なしというのも味気ないので、庭園の写真を。


 それでは今年が菊池一族にとって良い年でありますように。

七坪産神社

 前回染土城と同じく、源為朝伝説が残る神社が菊池にあります。

 それがこちら、七坪産神社です。染土城からそう離れていませんが、十八外城では葛原城の方がやや近いかもです。

 せっかくなので、サイトとは違う写真にしました。

 菊池にある菊池氏関連神社の中では、訪問難易度が高いです。とは言っても、高い山の上にあるわけでも、茂みの中にあるわけでもありません。単に、場所がわかりにくいだけで、私はたまたま出会った地元の初老の方に、一日史跡を案内していただいたので助かりました。

 さて、『菊池風土記』には、「1353年に菊池宗政なる人物によって建立されたと伝わるが、そんなやつは系図にはおらんし、神体の裏に1467年藤原宗政とあるので誤り」とあります。
 ただ、『菊池氏史要略』には1222年第七代菊池隆定公によるとあり、『菊池市史』にも隆定公とあります。共に出典はわかりませんが、どちらかが勝手に引用したのかもしれません。他にもそのような文献があったように思いますが、思い出せません。

 さてこの神社、祭神は源為朝の妻と6人の子供(男3・女3)で、なんと為朝の後妻の送った弓の名人(刺客?)によって射殺されたのを祀ったと伝わっているそうです。怖い怖い。
 しかも、神社近くの岩壁には、七人を射殺した矢が刺さってそれが残ったという矢竹群が最近まであったそうな。かつてここは「七坪村」だったらしく、「七」人が関係しているのでしょうか。
 隆定公の没年は1222年説がありますので、死ぬ前に「あの7人を祀っとかんといかん!」と思って建てたのでしょうか。

 次回は、近くの葛原城になる…のかも。

【文献】
『菊池風土記』『菊池氏史要略』『菊池市史』

【七坪産神社】
菊池市西迫間 Pなし。少し離れた舗装された道路に駐車して歩くと良いかと。

鷹取城(染土城)

 3ヶ月更新がないとかで、広告をTOPに表示されてしまいましたので、久々に更新です。本家も美星町の菊池神社を更新すると告知しておいて、放置してしまっていますが…。

 さて、前回五社尾城から反時計回りで、今回は鷹取城です。鷹取城は日本全国に多々存在しており、菊池氏が他に関係している筑前の鷹取城もありますから、染土城と呼んだ方が良いのでしょうか。深堀文書にも染土城とあるようですし。

 さて、今川了俊によって第17代菊池武朝公が隈府城を落とされた際、良成親王が籠もっていたお城とされます。かといって、常に親王がここに居たわけではないようで、本城の背後にあたる、比較的安全なこの城に一時的に居てもらったのでしょう。後に今川義範によって落とされますが。
 城として機能していたか怪しい城が多い十八外城ではありますが、城郭大系によるとここはちゃんと機能したようです。

 こんな感じで狭い主郭はの高台は切り落とされています。

 上から見るとこうです(上記写真と撮影した季節が違います)。畑の遺構なのかどうかは素人にはわかりません。

 なお、ここには例によって源為朝伝説があり、ここを居城としていたという伝承があるようです。供養塔らしきものもあります。

 せっかくなので、次回は菊池にある別の為朝伝説史跡について。

【文献】
『菊池市史』
『菊池風土記』
『菊池一族』
『城郭大系』
『菊池市の文化財』

【染土城】
Pスペースはあるが、邪魔にならないように。紛らわしい看板にも騙されないようにご注意。

五社尾城

 珍しく余裕ができたので、5日に続いての更新です(本家の更新ネタがまだ残ってはいますが)。

 なんとなく、菊池十八外城シリーズに戻ります。
 なぜか古池城から始まり、反時計回りで掛幕城まで来ましたので、今回は五社尾城です。

 五社尾城は、登城難易度が十八外城の中では高めです。
 まずは場所がわかりにくいこと。さらに、十八外城の中では最も藪化していること。そして十八外城の中では最も急峻なことです。

 ただし、運が良ければ刈られたのか枯れたのか、藪が解消されていることがあります。 が
 こうなり、
こうなっていることも。
 最後の写真で、何となく十八外城の中ではやっかいなことがわかるでしょうか。

 わかりにくかった場所も、手前味噌ですが私の地図を見ればもはや難しくないかと。

 なお、遺構としては石垣があると説明板にはありますが、発見していません(その努力もしていませんが)。

 また、城主など詳しいことはわかっていないので、あまり再訪することのないお城でもあります。石垣発見情報を他力本願で待っています。

【文献】
菊池市の文化財

【五社尾城】
菊池市雪野あたり。Pは看板近くに可能。

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