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菊池ごはん

2013年2月4日開設。 旅行記がわり、菊池や菊池一族についての備忘録。

   

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素盞嗚神社の大藤

 4/30のことですが、八女市黒木町の大藤を見てきました。
 この大藤、良成親王のお手植えという伝承があります。

 この藤棚の規模は、小郡の大中臣神社にある懐良親王の将軍藤に勝ります。


 こちらが昨年4/24の将軍藤。こちらも見事ですけどね。

 その後はすぐ近くにある猫尾城を再訪してきましたが、猫尾城についてはいずれご紹介することもあるでしょう。なんせ立派な菊池一族関連史跡ですから。

【素戔嗚神社】
八女市黒木町黒木 専用Pはなさげだが、北の公民館付近に駐車スペースあり。ただし近くに駐車禁止標識あり。大藤祭りの時期は無理で北西の体育センター駐車場(有料)が無難かと。

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菊池武光シンポジウム

 3月23日、菊池武光シンポジウムの前に、菊池をウロウロしてきました。

 まずはなんとなく台城に行き、倉庫として使われたと言われる横穴群を見てきました。

 桜には少し早かった…。

 続いて東へふらふらさまよい、菊池兼朝公墓菊池隆定公墓をお詣り。

 桜には少し早かった兼朝公墓。

 兄弟と並ぶ隆定公。

 その流れで神尾城

 阿蘇三社宮は持朝公の建立。 

 その後は菊池神社城山神社にお詣りし、なんとなく空堀をウロウロしました。


 まだ時間があったので、これまた何となく城林城に行こうかと思いましたが、運転に怖じ気づいて素通りして東山公園へ。

 桜にはまだ早かった…。なお、古戦場に関する新たな看板が追加されていましたが、旧来の看板の内容に特に訂正はありませんでした。

 その後はなぜかジョイフルで食事を済ませてシンポジウム会場へ。13時開場の13:30開始なのですが、既に13時前に駐車場は結構な混雑でした。入り口でクリアファイル入りの資料をもらいましたが、どうも予想以上の来場者数でクリアファイルは品切れになったとのこと。来場者は圧倒的に年配者が多く、ほぼ一般市民でしょう。

 でもって、肝心のシンポジウムの内容ですが、率直に言って期待外れでした。
 服部先生の基調講演は面白かったです。菊池氏のルーツを簡単に説明し、さらに蒙古襲来絵詞を使ったユニークな説明や、大原合戦を資料を使って説明しているので、一般市民もいくらかは興味も持てたと思います。
 その後の3名のパネラーですが、工藤先生の内容は資料がない上に聞き取りづらい(今、内容を思い出すことができません)、猪飼先生の内容は戦前の菊池氏がどう顕彰されていたかというお話、貴田氏の内容は水運を用いた太宰府天満宮領のネットワーク、野焼きから武士団の営みを解き明かそうという内容。
 学会発表ならば良かったのでしょうが、市民向けの、かつ【菊池武光】シンポジウムとはかけ離れた内容でした(とってつけたような「日本史を動かした肥後武士団の実像とは」というサブタイトルもありましたが)。正直に言うと、ディスカッションが始まって少しして退場してしまいましたので、その後面白い話があった可能性もあります。
 ここであれこれ言っているだけではなく、ちゃんとアンケートには実名で同じ感想を書いてきました。「せっかくやってくれたのだから」と何でも「良かった」と答えがちなのは日本人の悪いところ。より充実したものにするためには、感じたことを率直に言わなければなりません。
 次回があるのならば、大学教員・研究員に拘らず、堤克彦氏や阿蘇品保夫氏を登用して欲しいなと思います。

城武東墓

 前回ご紹介した峯泉寺から北数百メートルに、城武東の墓があります。城武東は、城親冬の弟に当たります。ここにお墓があると言うことは、親冬が隈本に入った後も、城林城に残ったのでしょうか。

 上木庭地区の看板には「逆修の碑」とあり、さらに言えば城武東よりも藤原武東墓として知られているようです。

 峯泉寺もこの看板に記載されていますが、今見直すとそのすぐ近くに「ブタイテンサン(頭が良くなる神様)」なるものがありますね。行けば良かった。

 さてその「逆修の碑」、この看板では非常にわかりづらい所にあります。畑を通る道が急にこのようにきれいに舗装される風景を目印にすると良いでしょう。私も何度もこの周囲を車でウロウロとしてしまいました。

 写真にある小さな丘陵の向こう側に、看板とお墓があります。

 左の墓碑には「逆修城筑後守日千東永(?)藤原武東」とあり、「弘治四年八月吉□」と続きます。吉「日」でしょうか?逆修碑ということは、吉日に自らの墓碑を刻んだのでしょうか?右は記銘から察するに奥さんでしょう。

 城筑後守武東の名は、永正元年(1504年)の菊池政隆侍付に見つけることができます。弘治4年は1558年ですから、結構長生きしたのでしょうか。

 次も城氏のお墓について。

【文献】
『菊池氏史要略』
木庭實治『菊池木庭城と木庭一族』

【逆修の碑】
菊池市木庭(上木庭) 近くに駐車スペースあり

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養林山峯泉寺

 前回ご紹介した城林城の北東、同じ木庭に峯泉寺があります。


 鎮守神社なるものとセットになっています。

 この看板には、「神殿に10歳以上の女性は登るな」と書いてあります。なぜでしょうね。

 峯泉寺はこちら。

 何かの文献で城武顕が開いたと読んだ記憶があったのですが、『菊池風土記』では「城越前守」とあります。城氏は祖・隆経のみならず為重、重峯、親冬親賢と越前守を称していますが、隆経のことでしょうか。
 というのも、『菊池風土記』には城隆経のものと推定される城越前守の墓があると記されています。推定であるのは、墓に記銘がないからとのことです。そのお墓を探したのですが…

 この中のどれかなのでしょうか。文字は読み取れませんでした。

 次回も城氏の墓を。

【文献】
『菊池風土記』

【養林寺峯泉寺】
菊池市木庭(上木庭) 西南の空き地に駐車しました

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城林城

 城氏の居城として、城林城城村城の二つがよく挙げられます。今回は菊池十八外城の一つでもある城林城、別名木庭城についてご紹介します。

 ヘリコプターからの空撮写真。

 城村城は城武顕によって築城されたと言います(城郭大系には「伝」とあります)。城武顕と言えば、『武王の門』では15代菊池武光公の片腕で、槍を片手にイケイケどんどんの大将に描かれていますが、いろんな文献を読むに、知謀に優れた人物だったようです。

 城郭大系には「く」の字型の平坦地と堀切が残り、十八外城の中でも遺構もはっきり確認できるとあります。
 「古城」という字名が残り、地元の人が「城床」と呼ぶ箇所に城趾碑が建っています。

 たしかに城床の部分は「く」の字のような?
 その背後に「外堀」「内堀」と呼ばれるものがありますが、現在は畑になっています。

 本城に非常に近く、城床からは13代菊池武重公墓東福寺隈府城を眺めることができます。


 しかし本城が近いが故に、占領された場合は本城攻撃の拠点として利用されたようです。23代菊池政隆公は大友勢にここを拠点とされ、隈府城を追われています。

 付近には城氏のものとされる墓や寺がありますので、次回からはそれらを紹介した後、城村城に移りたいと思います。

【文献】
『城郭大系』
『菊池氏史要略』
木庭實治『菊池木庭城と木庭一族』

【城林城】
菊池市木庭 城床に駐車スペースあり(ただし道狭し)

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